(18) シャルトル大聖堂

パリから南西へ約80キロ。車で訪れる人達に、ボース草原の中から屹立する二つの塔が見えてくる。
シャルトル大聖堂は、フランスに数多いNotre-Dame Cathedral(ノートルダム大聖堂)の一つである。別名「聖母マリアの家」と呼ばれる。

僕はこのシャルトルを、5回ばかり訪れている。しかし、この「聖母の家」の全容を把握できないままの今日を感じている。それほどに、ここには美術と建築の 粋、それに加えて、あの名高い「12世紀ルネサンス」の学問の功績もある。美術の中心は、聖堂を囲む壁を覆い尽くしたステンドグラスの窓と、聖書の物語を 刻んだ彫刻群にあると言えるだろう。全てを知り尽くせないながらも、知る限りを記述するとすれば膨大なページを必要としてしまう。

そこで、限られたポイントに記述を絞ることにする。
教会建築の正統的なスタイルで構成されている。大火災の後、残されたロマネスク様式の上にゴシック建築が重ねられた。しかし、例えば北塔、南塔の形状の違 い、高さの違いというアンバランスが全く気にならないほど、このシャルトルの大聖堂は美しさと荘厳に満ちている。西正面にそびえる北塔(下図のB)は、高 さ115メートル、そして南塔(下図C)は高さ106メートル。両塔に挟まれた「王の玄関」(A)の上部と、また、背後に柱を背負って、旧約聖書の人物た ちが彫られている。

この西正面玄関(A)、そして、南門(H)と北門(G)の配置は、一つの定型となっている。北半球の地にあっては、南側は陽の位置を占めている。この扉口 上方に咲く大輪の薔薇窓が「キリスト礼賛」の主題を意味する。聖母は北にあって、その子イエス・キリストに光の恵みを与えている。薔薇窓の下、扉口に「最 後の審判」の図像が刻まれている。

「シャルトル・ブルー」として有名なステンドグラスの青は、「The Blue Virgin Window(美しき絵ガラスのマリア)」で美の極に達する。

だが、僕が最も印象付けられた美術作品は、The Ambulatory(周歩廊)に据えられた、聖母子を物語る彫刻にあった。それは、イエスの生誕後、聖母子を訪問した東方三博士の物語でもある。幼子を 膝に載せた聖母に、ある雰囲気を添える表情が、常に僕の中で強い印象を持続していた。聖堂完成は12世紀、したがって、それより後年、16世紀に据えられ た一連の彫刻作品は、たしかにルネサンス美術の輝きを伝えてくれる。
これは独りよがりの感懐かもしれない。しかし、ルネサンス美術の大家、そして後世の美術家たちが必ずそこに戻っていくという古典派美術の元祖ともいうべ き、ラファエロの作品に、僕の感懐は繋がっていく。「The Holy Family of Francis I(フランソワ1世の聖家族)」----(教皇レオ10世が時のフランス王に贈った作品の意味)----、の聖母の表情に、落ち着いた安堵とともに、幼子 への、形をなさない不安がのぞかれる。それは人の子の母としての常なのかも知れない。

下の図と、その上部の説明で、概略は把握できることと思う。「聖域(祭壇)」に向かって座り、また跪く信徒たちの場は、中央の広いNave(身廊)に占め られている。東端にある三つの放射状半円形チャペルにも、その外壁を覆う見事なステンドグラスが埋められている。聖マルガリータとカテリーナの二人の聖 女、偉大なる聖ヤコブ(St. James the Greater)に混じって、Charlemagneの物語が彩りを添えている。シャルルマーニュとは、あのカール大帝のことである。彼は文盲と言われて いるが、カロリングルネサンスを興し、学問を奨励した「フランク王として初のローマ皇帝」であった。

東端に付け足しのように作られたSt.Piat Chapel(聖ピアト・チャペル)には、興味深い物語がある。
大聖堂建築より以前、シャルトルはすでに巡礼の地であった。メロヴィング朝からカロリング朝の初期にかけて、巡礼者たちは、聖堂ではなくて'Well of the Strong Saints'(強い聖人たちの井戸)と呼ばれている井戸に詣でた。この井戸は、初期のキリスト教迫害時代に、殉教した地元の聖人たち(聖ピアト、聖シェ ロンほか数名)の死体が投げ込まれた場所と、人々は信じていた。………このSt.Piat Chapelは通常、見学はできないが、時々、イベントによっては展示室として用いられることがある。



[シャルトル大聖堂平面図、および説明]

A→Royal Portal(王の玄関)
B→North Tower(北塔)
C→South Tower(南塔)
D→Nave(身廊)
E→North Transept(北翼廊)
F→South Transept(南翼廊)
G→North Porch(北玄関)
H→South Porch(南玄関)
I→Choir(聖歌隊席)
J→Sanctuary(聖域―祭壇)
K→Ambulatory(周歩廊)
L→Apsidal Chapels(後陣―礼拝堂東端の半円形のチャペル・聖歌隊の後ろ)
M→Vestry(聖具室)
N→St.Piat Chapel(聖ピアト・チャペル)




  • 編集日時:2012/5/15 17:40:15
  • 回答日時:2012/5/15 05:46:18

 日常と非日常
          ―20世紀の古典主義者たち―



                                        1998年10月11日論述




(一)   導入

  アメリカの作曲家スティーブ・ライヒが、ミニマリズムからの離脱を表明したとき、私は、それより以前に、彼が彼自身の音楽論について表明した文脈を想ったことを憶えている。
  ――私はコンセプチュアル・アーティストではない。なぜなら、私の場合、概念が必ずしも作品に先在してはいないから。むしろ「緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽――Music as a Gradual Process」で述べたように、形式が内容に先在し得るばかりでなく、内容が形式に先在することもあり得る。
  概説すれば、美術とともに、音楽における、ロマン主義との葛藤の中から生れたミニマル・アートの正統性についての考察であり、その分析の過程での一つの出会いに違いなかった。「正統性」の言葉で、私はその語用を、「古典主義継承」における正統性に限ることを附加したい。それとともに、現代美術におけるロマン主義を、例えばドイツ表現主義(そして、その根拠を提供しているとされるカント美学)に範囲を拡げても私の論旨は変らないが、直接的にはアメリカ抽象表現主義がその用語の対象であることも附け加えておこう。更に、その対応としての古典主義作品が、大戦後の世界の美術界をリードしており、その成果と影響力において他の追随を許さないアメリカ・ポップアートであることも……。

  現代音楽の場合、クロード・ドビュッシーからオリビエ・メシアンへの一つの流れを考え、その上で、モーリス・ラヴェルからピエール・ブーレーズへのもう一つの流れを想定することは可能だろう。後者、即ち古典主義系列から、より厳格な構成を呈示するミニマリズム(一般に反復音楽とも言われる)が誕生する。だが、ロマン主義と古典主義の同時並存の中で、今度はミニマリズムと古典主義の本質的差異を認めることの難しさを鑑賞者は感じるだろう。リズムと主題の単純な反復――この理解は、他のジャンルの鑑賞によって、歩を進めることは可能である。
  舞踊と美術における展開は、本質的な等質性によって、異なったジャンルでの最大公約数を持つ。古典主義としてのポップアートとモダンダンス。それに続くミニマリズムとしてのポスト・ポップアートとポスト・モダンダンス。だが、例えば情意性や内面性の排除、あるいは素材の没個性と無機的形象、等……、現代の古典主義者たちの志向を更につきつめていく作業。意図と現実の乖離は、しかし単純な必然性に基いている。美術におけるロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホル達、舞踊におけるマース・カニンガムやアルヴィン・エイリー達、この古典主義者たちは、日常性が優位を占める画面や、あるいは空間に、観念を持ちこむことはない。だが、ポップアーティストやモダンダンス振付師のこうした志向をつきつめようとするミニマリストは、古典主義者が尊重する技法や素材への洗練された感性を、必ずや変貌させずにはおかないのだ。危険は目前にある。そもそもの素材重視がやがて概念形成への偏りを生む。そして、このコンセプチュアリズム(概念主義)は、今ではミニマリズムとは異質の、美に無縁の存在となる。

  かつてはスティーブ・ライヒの同僚とされていたソル・ルウィット(美術)の次の言説には危険な萌芽が既に見えつつある。
  ――芸術家がコンセプチュアル・アートを手がけるとすれば、それはすべてが計画され、すべての決定が予めなされ、実行は取るに足らない事柄にすぎない、ということを意味する。
  次のような例もある。
  日本にも馴染みの深いアメリカ・モダンダンスのエリサ・モンテの次のような言説は、ある示唆を与えずにはおかない。――私たちの特性は、スピード感と緩慢な動きの持続性にある。そして、トレーニングは、発表される作品の一部です。
  ここには、一つのプロセスがある。スティーブ・ライヒの音楽によるE・モンテの振付は話題を呼んだが、そこにはモダンとポストモダンの両様が見られるように、その言説には、既に明白なポスト志向がのぞいている。例えば、イヴォンヌ・レイナー(ポスト・モダンダンス)の、――ある目的に向うプロセスとしての運動、というダンスについての一つの定義に、共通性を見出すのは容易だろう。
  S・ライヒが離脱したもの、そして、P・ブーレーズがかつての師メシアンを激しく批判する・・・・・・。幾つかの事例の交錯は、ミニマリズムとロマンティシズムが、古典主義者たちが棲息することのできない土壌としての共通性を備えていることを伝えずにはおかない。


(二)   日常と非日常
  

≪日常と非日常――主題のための例題≫

  この主題へのステップとして、モダン・ダンスにおけるエフォト・アクション(Effort Action)から一つの例をとり出してみる。舞踊の専門的・技術的分野に属することではあるが、それは他の世界にも共通する普遍性を備えている。
  ダンス・システムとしての、あるいはカリキュラムとしてのエフォトでは、例示する「着地」は、エレヴェーション・フレーズ(Elevation Phrase)に組み入れられる。
  「床からの離れ」――即ちエレヴェーション。その基本要素としての「着地」は三つの態様を準備する。
(1)直後の再浮上を予定した着地
(2)浮上の感覚を放棄した着地
(3)浮上の感覚を留保した着地
感性的把握というよりは、瞬発力に似た筋力の鍛錬にその成否がかかる(1)では、衝撃性と推進性が強度に要求される。それに比べて、重力に身を任せて床に落ち込む(2)のケースは、初心者にとっては最も普通の意味での着地として理解される。だが、ステージと不断のトレーニングを日常とするプロフェッショナル達にとって、常時の緊張感は、(2)の着地の方を、単純作動の(1)より困難に感じさせよう。激しい着地に続いて、ひざまづく、あるいは横たわる等の動作が自然な運動として眺められるのはそのためである。感性的把握が最も必要とされる(3)では、身体的熟練は当然、過度の精神的集中が要求される。ジャンプの性格を明示する身体的エレヴェレーションから、着地の性格を分離するに等しい精神的エレヴェーション、時にはすばやく、時に緩やかに、一方から他方への移行を容易にするのは感性的把握である。
 
モダンダンスのエレヴェーション・フレーズ(着地のエフォト)
この留保感覚は、熟練されたダンサー達に、一つの選択の自由を与えずにはおかない。それは再浮上と浮上放棄の選択に関することだが、上級者にとってこの才能は人生の断面を暗示している。即ち、習得に至る必要条件として、精神が身体にうち克つこと、それに対して打ち負かされる身体については、例えば脚部や背筋などの強度の鍛錬が、こうした上昇の留保感覚を達成させるという逆説によって説明されるからである。
  性格を全く異にする他の舞踊についても、その留保感覚は等質だと言えるだろう。
 
  例えばバレー。あるいは、エレヴェーション・エフォトを殆んど見出せないボールルーム・ダンスにおいても、同様である。アメリカ合衆国を中心に、次いで西ドイツで多くの成果をもたらしてきたモダン・ダンスに対して、イギリスではバレーとともに重要な位置を占めてきたのはボールルーム・ダンスである。この舞踏には、文学や絵画に共通するイギリス的特性が感じられる。(日本では社交ダンスとして親しまれているが、本項では、かなり性質を異にするエキジビション・ダンスの、その振付に関する観点から私は述べていることをことわっておかねばならないだろう。)
  クラシック・バレーの場合と同様に、演奏スタイルの変化はあっても、既存の音楽をもとに振付する。モダンワルツやフォックストロット、あるいはタンゴのように、音楽における明確な差異がそのまま舞踏における差異を生む。曲目をとおした総体としては、これもバレーと同様に情動的で物語性の感覚をそえるのだが、またバレーと同様に、ルーティンを構成する各フィガーはすべて抽象の連続である。この、ジャンプを例外とする舞踏ジャンルでは、モダン・ダンスにおける克服すべき「エレヴェーション・エフォトの留保感覚」は、独特のムーヴメント重視の体系の中に充ちることになる。特に、ベーシックとスタンダード・フィガーにさえショー的要素を見せるフォックストロットでは、それは更に顕著となる。
  しかも、最も基本的なダンス・ウォークそのものが、この留保感覚の連続で構成されていると言っても過言ではない。

  スポーツではディフェンスの中の幾つかにそれが生かされている。例えばテニス、――リターンへ向う直前。野球、――捕手が捕球する直前の野手達。日本のプロ野球成長に最大の貢献をしたアメリカ選手、ウォーリー・ヨナミネの場合、一般に「外野守備のすばらしいフットワーク」と称される、連続した「留保感覚」の提示にそれは認められるだろう。
  また例えば「能」における運び。茶道の作法、特に表千家の単純さに、私はこの留保感覚を多く認める。


≪現代的日常性と古典主義≫

  主題のための例題として私が具体的に例示した事項は、すべて、特殊世界での習得という事実において非日常である。だが、まず結論を先に述べれば、列記したすべての「留保感覚」は、「日常の美」を形成する要件の重要な部分と言える。
Trisha Brown
  スーザン・ソンタグは、ポスト・モダンダンスにおける日常性を「並列した日常性」として説明する。例えばイヴォンヌ・レイナーやトリシャ・ブラウン達、――一般に、マース・カニンガムに代表されるモダン・ダンス以降として、ポスト・モダンダンスの呼称で統括される舞踊家たち――は、日常的行為の変貌を示しつつ、作品に現わされる日常性と、観客における日常性との乖離現象を指摘する。
   
  この興味深い論述は、しかし、今までのところ、十分な論証を提示しているとは言えない。たとえば、S・ソンタグが例示した「観客が嫌悪を覚える作品」について、この関係式の素因を作品と観客における日常感覚の差異と断定できるほど、式を構成する記号の概念が明確とは言えない。
  しかし、「日常性」は定義に馴じむ言葉ではない。したがって、スーザン・ソンタグの言語分析へのアプローチは、不充分とはいえ、有益な示唆をそこに含んでいる。例えば「リアリズム」の用語と比べるとき、その類似性が理解されるだろう。

  言語分析への一つのアプローチを例示しよう。
  ・・・・・・ロバート・ラウシェンバーグが「コンバイニング(Combining)こそが真のアクチュアリティ(現実)である」
  と言うとき、それを理解した私は、彼が「非コンバイン・ペインティング」を唱え、変貌の理由を明白にしないときに初めて、この美術概念の消失を表明することになる。

Robert Rauschenberg   "Casino-R.O.C.I.Mexico" 1985

  この「アクチュアリティ」、一般的には「リアリズム」という用語が描く現実感覚は、しばしば、前衛を標榜する多くの美術創作者達に決定的な錯誤を与えずにはおかない。それは対立概念として「イリュージョン」を設定することに起因する。だが、芸術史は、その用語がどうであれ、イリュージョンの確実な現存を私達に伝達する。一般的にミニマリズムからの移行とされる、美術におけるコンセプチュアリズムについて、私がしばしば両者を区別するのは、この点においてである。ミニマリスト達は芸術史の現実を決して否定しない。だが、コンセプチュアリスト達は、とるに足りない「独断的な現実感覚」に基き、その他のすべてをイリュージョンとして排除する。結果として、現実認識は彼等から離れ、かつてない幻影の中に彼等は自閉する。

  ミニマリスト達を陥れる深淵は、この稚拙な観念主義者たちが誤って近親性を錯覚する、ある概念の追求の中に存在する。たとえば描くための手段である絵具やキャンバス、立体作品を構成する材料等、それ自体の存在の提示こそ作品となる。現代美術を多様化した「シェープト・キャンバス」(フランク・ステラ)、「ユニタリーフォーム」(ロバート・モリス)そしてこの概念追求に理論を与え、実作にそれを現したソル・ルゥイット達の業績は確かに評価されなければならない。

  ここには「日常性」への強い志向が感じられる。しかし、マルセル・デュシャンにはじまるこの現代思潮は、ほぼ完全な形でポップアーティスト達に継承されていた。1960年代に隆盛を見せた潮流は、今日でもグローバルなスケールを示している。   
  例えば、フランス文学におけるヌーヴォー・ロマン。演劇におけるアンチ・テアトル。そして、それと規を一にした、アメリカ・モダンダンスの変革がある。
  その実作振付をとおしてモダンダンスに体系を与えたマーサ・グラハムから、マース・カニンガムへの流れは、美術動向との相似性を保持している。美術史、音楽史に、断続的に、しかし常に「消失することのない人間の情意性」として現われるロマン主義の傾向を持つアメリカ抽象表現主義の終焉、それに代って、ハードエッジや構成に抽象感覚をそえつつ、情意性の排除と日常的素材の提示、創作者それぞれに特有のデッサン感覚と技法が創意を決定する古典主義者・ポップアーティストたちが、現代の傾向と影響を担うことになる。
  マーサ・グラハムによるモダンダンスの確立は、クラシック・バレエなどの古典舞踏にみられる形式主義に対する反撥から生れた。彼女における自由の獲得は、振付の斬新さとして姿を現わした。彼女における振付への情熱は、人間の内面の呈示である。今日、アメリカが生んだ、アメリカを代表する偉大な美術家の一人、ジャクソン・ポロックと、その朋友たちの存在は世界美術史に輝きを放っている。彼等の抽象表現主義を覆うロマンティシズムに、マーサ・グラハムの舞踏理念が近親性を添えていると言えるだろう。

  だが、すぐにも姿を現したアンチテーゼは、一つの必然性を意味する。
マーサ・グラハム舞踊団の中心的存在だったマース・カニンガムは、モダンダンスを支配していった内面性の呈示――舞踏における抽象表現主義に対して反撥を深めていく。例えばポップアートの先導的役割を担ったとされるジャスパー・ジョンズが、フランス・ヌーヴォーロマンの系譜に入れられるサミュエル・ベケットと共同制作をしたように、カニンガムもまた、ロバート・ラウシェンバーグ(美術)やジョン・ケージ(音楽)との共同制作を開始する。自からの舞踊団を創設したカニンガムの振付は、日常的素材の重視という「より現代性」の中に、内面性呈示の排除に伴なう「舞踏的素材の現在化、その調和と整合性」という新しい古典主義の試みに貫かれることになる。


                 シュトックハウゼン「小オーケストラのための≪Formel フォーメル≫」の表紙
                 12の数に基くリズム構造についての作曲者の注釈がほどこされた最初のページ
  
  

  ここに、歴史の必然性を認めるのは私だけではない。
  たとえば、音楽における新古典主義者ストラヴィンスキーに対して、激しい批判を続けたアントワーヌ・ゴレアは、その著書「Esthetique de la musique comtemporaine (現代音楽の美学)」で、ラヴェルへの評価に、ドビュッシーのロマン主義的要素との共通性を認めたい欲求をのぞかせている。だが、このフォーレの弟子である古典主義者がドビュッシーと分ち合う共通性は、現代音楽の先駆者という外形だけである。ドビュッシーを師としたメシアンの高弟たち、シュトックハウゼンやブーレーズのその後の展開と、今日、師メシアンとは余りに隔った対極に位置する事実を眺めれば、芸術史を彩るロマン主義に対して、古典主義が示す力強さは認識されねばならないだろう。


≪「能」が共有する日常性と古典主義≫

  評価の言表として「形式にとらわれない……」がある。しかし、言表者たちはその語用を明確にしない場合が多い。蓋然性に基く分類として、この語用は二通りの用法を示す。「様式の革新」と「様式の欠如」である。後者は美学の消失につながるが、それについては後述する。
  前者はしばしば「新しさの出現」について言われるが、実は必らずしもそうとは限らないのである。
  舞踏振付家モーリス・ベジャールが健在だった日々、彼が率いる20世紀バレエ団は度々日本を訪れた。そうした日々の中で、モーリス・ベジャールは、歌舞伎をモダン・バレエの振付で再現する試みを実行した。歌舞伎には乏しいデッサン感覚が「仮名手本忠臣蔵」の舞台に生み出されることで、彼はそれなりの成功を示した。
  それでも、ある難点への思いが私を捉えたことは事実である。「ボレロ」に代表される単純な反復による一種のミニマル感覚が、ベジャール自身「忠臣蔵の物語性」を尊重する振付に、充分に生かされていたとは言えなかった。むしろ、その融合は不可能に近いことかもしれない。
  変哲のない伝統芸能として鑑賞者が楽しむ要素は、劇全体の主題である不明瞭な「忠義」の観念よりは、むしろ通俗的ドラマのコラージュの中にあるからである。ベジャールが試みた古典主義は、抽象表現に近い歌舞伎(浄瑠璃)と密接することは至難であるに違いない。逆に、文楽(人形浄瑠璃)の方こそ、そして例えば「菅原伝授手習鑑」のプロットの中にこそ、ベジャールが探ねる、失われた「日本人の主題」があるように私には思えた。またベジャールが志向したデッサン感覚は、当然ながら、歌舞伎よりは文楽の方にこそ融合できるものではなかろうか。
  
デッサン感覚としての古典主義的性格は、「能」の中に最も適切に具現されている。例えば総合芸術として理解される「能」における謡・舞・囃子の構成要素を、共通素因の結合による分離提示が可能であることは、ヨーロッパの旅役者がしばしば演じたギリシャ悲劇やシェークスピアのドラマと類似する。ここには、古典主義芸術に不可分の「デッサンが全体を決定する条件の比重」が間接的に提示されている。「能」の場合、それは舞踊、声楽、器楽という個別的整合を経た略形式の提示となる。この分離可能性は、あらゆる芸術ジャンルに共通する、古典主義作品の特質と言えよう。
  この特質は、物語性に頼る、あるいは情意性を重視する作品からは、決して見出すことのできない、時間の浸蝕に耐え得る前衛性を生み出している。
          敦盛 :出典 平家物語   作者 世阿弥
          「草刈笛の声添へて 吹くこそ野風なりけれ」

  例えば「能舞台」だけに限ってみても、室内に独自の空間を占める舞台の屋根。十年一日の如き正面の「松絵」。更に鏡という具体的素材による抽象感覚としての「鏡の間」。それは抽象表現主義やロマン主義にはないハードエッジの抽象感覚である。それは、例えばコーラス(地謡)部門で、シテの流派による能楽師たちのユニゾン唱法の整合性と共通する。その強調はたしかに単純で、多様性を欠くが、しかし、歌舞伎にせよ、近代演劇にせよ、その狭路に疲れた鑑賞者は、この前衛芸術の整合性から、改めて自由の意味をくみ取るに違いない。
 
  また例えば、二番能「敦盛」で使用される能面「十六」をはじめ、「直面(ひためん)」等の例外が、単なる例外を越えた設定に、いわゆる固定観念の表出よりも、伸びやかな自由を認めるのは私だけではないだろう。そして、現代演劇、モダンダンス等が模索してきた「観客参加の理念」についても、「日常と非日常の交錯」を、「能」舞台の構成様式は、古い時代から今日に至るまで、考察のための緒口を常に提供し続けている。


≪ポール・クローデルと能≫

  私は、先に、モーリス・ベジャールという舞踏振付家による歌舞伎へのアプローチを記述した。そして主観に過ぎる恐れを感じつつ、あえてベジャールの日本の伝統芸術への交接が、むしろ、同じ浄瑠璃でも人形浄瑠璃であることがはるかに望ましかったという結論を導いた。
  この「デッサン感覚」が保持する古典的な芸術性は、それより前の世代の芸術家によって達成されていたと言えるだろう。そして、その芸術家、ポール・クローデルの名声は遥かに高く、彼の偉業はフランス文学史上にかつてない軌跡を録していた。
ポール・ヴァレリーと共に、ステファヌ・マラルメの高弟として若い時代から将来を嘱望されていたが、クローデルのカトリック回心への道筋は、アルテュール・ランボーの「イリュミナシオン」に始まり、そこで生れた形而上的世界への志向は、やがてパリ・ノートルダム大聖堂におけるクリスマスの晩祷によって達成されたと言えるだろう。
19世紀終りから20世紀にかけて、フランス全体を覆い尽くしたかの感があった「科学万能主義、唯物史観」に、彼もまた、多くの青年たちと同様に心をさいなまれた一人に違いなかった。だが、カトリック回心後のクローデルの文学的歩みは、「詩劇」、即ち言語活動における難事業の達成にあった。

ポール・クローデルは、ギリシャ悲劇、あるいはシェークスピア劇から多くを学んでいたが、彼の日本滞在期間中に「能」への強い傾倒を感じ始めていた。単に他国の古典芸術への興味などではなく、「能」が持つ斬新な舞台劇の特質が、彼の感受性に大きく作用した結果である。彼は文人としてばかりでなく、外交官としても、自国フランスのためにその身を捧げていた。
    Fanny Ardant dans l'oratorio dramatique : « Jeanne d'arc au bûcher » 
              劇的オラトリオ 「火刑台上のジャンヌ・ダルク」 (主演 ファニー・アルダン) 2005年


   彼の在日期間は19211927年、駐日フランス大使としてであった。この数年の間にクローデルは、「能」が持つあらゆる特質を殆んど習得吸収していったと言えるだろう。後年の彼の作品、例えば「クリストファー・コロンブスの書物」をはじめ、劇的オラトリオと指定された「火刑台上のジャンヌ・ダルク」などは、「能」の特質からの影響が著しい。       

   この偉大な文学者と「能」については、機会を改めて論述したい。



≪ミニマリズムはその役割を終了する≫

  ポスト・モダンダンスに相当するポスト・ポップアートという言葉がある。だが、前者がM・カニンガム以降のダンスの一つの傾向を指示するのに対して、後者はポップアート以降のさまざまな傾向を総称する。
  ポスト・ポップアートの主役として、批評家バーバラ・ローズはミニマル・アートを想定した。それに対して、フォトリアリズムにその可能性をみたクリスチャン・リンディやリンダ・チェースのような批評家がいる。こうした想定や期待は必らずしも裏切られたわけではないが、70年代の期待可能性は既に消失している。主役は常にポップアートだった現実が、評価と計測の基準変更を批評家に強いることになる。
  そして、いま、私の想定のなかで、ポップアートが未知の何かにその地位をゆずるケースがある。その時、ミニマリズムは既に過去の一つの遺産として、オプティカル・アートと同等の評価を得ているに違いない。
  フォトリアリズムの場合、ポップアートの真正な継承者として、それ以上の人気を得ることはないが、ポップアートとの並列のうちにその独自性を深めていくに違いない。

  一方、ポスト・モダンダンスの舞踊家たちは、すべてミニマリストとして理解されている。だが、独自の振付でミニマリズムを代表するトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナー達、その活動の本拠地をニューヨークに置く彼女達は、西海岸出身の音楽家ジョン・ケージの「音楽の未来(The Future of Music)」宣言に主張の根拠を求めている。
  ――時速50マイルのトラックの音、雨の音、そしてラジオの雑音、われわれをとりかこむ音の大半を占める騒音は魅力に充ちている。
  こうした雑音を、J・ケージは音響効果として、つまり手段として採用する考えを持たず、あくまで創作の主要素である素材として捕えていった。そこから導かれる「日常性」への考察を、舞踊におけるミニマリスト達は、今度は舞踊におけるポップアーティスト、マース・カニンガムからの学習の上に発展させる。
  ミニマリズムが美術史に残すであろう評価すべき足跡に、必然的に内在する宿命的なペシミズムは、舞踊振付のスタイルの中に既に現出している。
  例えばポスト・ポップアートとしてのフォトリアリズムは、カメラやエア・ブラシュの活用をとおして、古典主義継承者としての独自のデッサン感覚を呈示しつつ、情意性の排除による主知性をより強めていった――、一方、ミニマリズムは、素材やメディアそれ自体の空間における成立条件を呈示することに、「日常性」についての認識を強調した。ミニマリズムにとっての幸運は、ドナルド・ジャドやソル・ルウイットなど、豊かな才能がそこに身を投じたことにある。素材それ自身の呈示は、単純な反復の形体にその成果を賭けることになる。その実作で成功した例題は、単純が初めて可能にする整合の美を観者に与えてくれた。
  しかし、そもそもの課題であった「情意性の排除」も「意味論からの解放」も、彼等の極端な日常認識が、その主張に内在する矛盾をクローズアップさせることになる。日常認識における狭路と究心性、この限定衝動は、必然的に意味論の拡大を予定する。即ち、言語における物理的法則の支配に従うことである。

  ミニマリストが自からの内に確かめなければならないペシミズムは、ポスト・モダンダンスの場合、ジョン・ケージの宣言の具現の中から既に生れている。表現の手段ではなく、素材として捕かくすること。この素材認定をミニマリスト・ダンサー達は自からの身体に適用する。ここにも一つの矛盾の現出がある。J・ケージが雑音に与えた上位移行を、極端な素材認定による日常把握のために、自からの身体の下位移行を企図することになる。日常性の美学にとって、それは危険信号に等しい。身体動作の極限への試行もあるが、熟練を必要としない「素材人間」が群がるステージの振付を、鑑賞者もまたミニマリスト的反復の支援を続けるだろうか?
  かつて、美術批評家バーバラ・ローズが、その夫であったフランク・ステラの作品について、「ミニマル・アートの外形の内に、抽象表現主義の残骸が濃厚」だと批難したエピソードがある。その真ぴょう性については不明だが、鋭い舌鋒で知られる彼女のプロフィールを伝える情報としては適確であろう。そして、彼女の言説は正当であり、かつ不当である。その批判が当っていることにおいて正当である。だが、批判の対象の宿命性において、批判行為は不当となる。

  先記した矛盾の必然性がそこにはある。範囲の限定がもたらす意味作用の拡大であり、それは当初の否定事項として激しく衝突する。フランク・ステラの今日は、ミニマリズムからの解放を伝えている。
  私は、「形式にとらわれない」の言表が意味する二つのうち、「様式の革新」については先に論述した。もう一つの「様式の欠如」は、美術におけるミニマリズムからの展開に顕著である。それは一般に「観念主義(Conceptualism)」の呼称で、一部の人気を博しているが、この名称が持つ「無・意味」性は、そのまま活動のノンセンスにつながる可能性を秘めている。
  主題と形式、あるいは内面性と表現技法は、しばしば論述の便宜から分離して語られるが、この二つが密接していることに異論をはさむ者はいないだろう。つまり、構成力としての技法的側面を示すこの用語で、それが未熟とされることは、同時に創作者に内在する「コンセプト」の希薄性が語られることである。したがって構成力の乏しさを被いかくす、錆びついた観念言語の壁を想定するとき、コンセプチュアリスト達が喧伝する観念性が外形的役割を分担し、技法的構成力が内容を意味する例示となる。様式の欠落が招く美学の衰退現象である。


≪日常と非日常――主題への序説≫

  冒頭に例題として記述したモダンダンスのエレヴェーション・フレーズについて、特に「再度の床離れ」のための留保感覚を、日常性呈示のための要素として結論づけた。
  この結論に、私は「日常性転換」の合目的性を附与している。例えば次のような類例は容易に理解されるだろう。
  それは会話と会話の記録の間に介在する差異の感覚である。「テープ起し」のケースを連想してもよい。もし録音テープの音声を、使われた言葉もそのままに文字にすれば、この平易な日常会話をスムーズに読了することは殆んどの人にとって不可能となる。証拠探索の作業としてはともかく、日常性の等質な伝達をはかるならば、「話す言葉」から「読む言葉」への翻訳は必要となる。時間と時間の差を埋める修正によって、等質の日常性が伝達可能となるのである。
  
同様に、ダンスのムーヴメントにみられるスムーズな位置の移行は、習慣的平穏の態様を示す。ぎくしゃくした動作は、観客の日常感覚を奪い去る。落差の要因は、注視を伴わない出会いと、注視に応える舞台上の動作の間にある。この落差をうめるのが「留保感覚」の持続性である。そして、ここでは逆もまた真であり、今度はぎくしゃくした動きを示す場合でも、それは人為に基く動作として「留保感覚」の習得が必要とされる。
  そもそも日常性への強い主張は、マース・カニンガムに始まる。そして、ポスト・モダンの殆んどの舞踊家は、カニンガムからそれを継承した。だが、美術のミニマリストたちが、素材自体の表現にその概念を見出すとき、期せずして否定事項の復権を許すことになった矛盾――、それと同様に、舞踊のミニマリストたちも素材概念に捕われた結果、もともと内面否定にはじまる日常性の転化作用を余儀なくされる。そして私が例示した――時間・空間の差をうめる転換――とは別の、象徴記号の列記という概念性が先行する。結局は内面否定の別の内面呈示というペシミズムに陥ることになる。これは新しいロマンティシズム以外の何ものでもない。日常性の宝庫が、ミニマリズムには無縁の存在となっていく。
 
 先に記した留保感覚の日常性呈示は、モダン・ダンスに多く認められるが、それは本来すべての舞台芸術に適用し得るエフォトである。マース・カニンガム振付の独自性は、ジョン・ケージのそれと同様、伝統舞踊が否定する「日常の所作」の捕かくにあった。捕かく者はその対象を料理する。M・カニンガムの類い稀れな整合性は、こうした「日常把握」の感性が創り出したものである。

マース・カニンガム振付 ≪ランドローパー≫ 1972年
 
  そのとき、私は、カニンガムの作品の中に、伝統的バレーのさまざまな場面も楽しむことになる。それはちょうど、ポップアーティスト、ロイ・リキテンスタインの作品の中に、しばしば、ピカソやマティス、さらにはモネやレジェ等の形象を楽しむことができるのと等質である。
  リキテンスタインの「Haystack」は、積み藁の写生による作品ではない。クロード・モネの作品を彼のスタイルで描いた結実なのである。

  今日、ミニマリストたちは、彼等を育んだ土壌への克服が殆んど不可能であることを知っている。そして、大衆への浸透が常に重要な課題となるアメリカでは、彼等の先達者ポップアーティスト、あるいはモダンダンスがいつも優勢である事実以上に、異なった世界からの脅威に晒されている。例えば舞踊の場合――
  一つはアメリカに根強い、クラシックバレーの人気である。もう一つはロック・ミュージックを主体としたミュージカル・ダンスである。更に、新しく勃興したジャズ・ダンスやコンテンポラリー・ダンスの展開が早い時期に成熟を見せた事実がある。そして、このいずれもが、ジャンルの中での斬新性を競うと共に、音楽と舞踊によるステージング・コンセプトの更新性と、ハイレベルの技術を競うトップダンサー達によって最高の評価を得ている現実がある。
  ミニマリストたちが「日常性」を狭い器の中に閉じ込め、実りのない観念ゲームにたわむれている傍らで、「日常性」の宝庫は、世界のすみずみで、価値への考察の道しるべを提供し続けている。


(三)   結語

  いつもは読み過ごすだけの、ありふれた言説が、読む者に、それより以前の体験を想い起こさせる一つの例。
  アメリカの作曲家スティーブ・ライヒの言説――古典主義についての端的で明解な定義にも等しい――は、イギリスの数学者W・W・ソーヤーが「最も美しい部門」と讃える「射影幾何学」の一つの成果を私に想い起こさせる。
  ユークリッド幾何学の公理が、非在の抽象概念で成立していることに伴なう、複雑で面倒な情報構成を、「射影幾何学」はそれを明確に切断し去るという、この対比は、少年の日からこのかた、私の胸を充たしてくれるものの一つである。ただ、少年時代の思い出はやや錯綜して、どちらかと言えばデザルグやパスカルのこの主題にまつわる定理よりは、同じパスカルでも「円錐曲線論」から導かれる結果としての記憶がいつも優位を占めている。
  射影幾何による証明法が内在させる一種の美学は、やはり成年近くなって初めて味わったことのように思える。
  それは「切断」と「単純化」がもたらす美と言えよう。

  デカルトの座標導入が持ち込まずにはおかない計量に比べた場合、パスカルにおける資質の態様はこの上ない魅力として私の眼に映った。また、例えば「姿を変えたもの」を主題とする「射影変換」は、私に「前衛理論」への序章を常に提供してくれている。
  整合性、デッサン感覚、調和等を古典主義の主たる要件とみなすとき、蓋然的ではあるが、興味深い判断が生れる。
  より前衛的であるものの古典主義的特性。例えば、伝統的形式論理学に比べて現代論理学、その現代論理学の中で、命題論理よりは述語論理の方が……、勿論、現代数学もそれにあてはまる。また例えば、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが、芸術のあらゆるジャンルで、「現代性」の主題をとおして、多くの古典主義者たちに与えた影響と、エマヌエル・カントが常に表現主義者=ロマン主義者たちのより所であった対比は興味深い。
  射影幾何の明解さは、しかし、ミニマリズムの考察の中で、私に霧のような不透明さで一つの不安を与えてきた。仮りに、問題解明のプロセスが、ミニマリスト達の素材表現との「比」を成り立たせるとすれば……。
  そして、こうした時期でのライヒの言説との出会いであった。ありふれた言説の中に、私がつかんだもの。例えばモーリス・ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の微妙の調性。「ボレロ」における細心のバランス。また例えば、二次曲線を円錐切断による曲線で求めるとき、対応する外形線に平行という固定した放物線のファールラインの中で、微妙な差異を内在させる双曲線の位置の範囲、等である。
  20世紀の古典主義者たち、多様な個性の中に共通する継承性は、あるいは、その源流の中に姿を見せずに予定されているのかもしれない。
「太平記」の人物たち



       ――天折した天才を偲ぶ――


                    2007年5月12日論述

    

〔平家物語を先例として〕
   一一八〇年(治承四年)、深まりゆく秋の日に、一人の天才が歴史に姿を現す。平泉から鎌倉へ――、だがこの地での三年半に及ぶ滞在の消息を伝える資料は無い。
    源義経の初陣は、平氏殲滅の目的を共用しつつ、絶対君主・頼朝の配下にない一族「木曽義仲」の追討に始まる。そして、源義仲における終焉は、義経が歴史に名を残す軍略記の序章にすぎない。宿敵・平氏打倒の緒戦は「一ノ谷戦線」で展開され、当年二十六歳の若き司令官は、琵琶法師が語り継ぐ「平曲」(平家物語)にあるように、「ひよどり越の逆おとし」奇襲戦で圧勝を収める。一一八四年(寿永三年)一月から二月にかけて、である。
    しばしの休止。平家物語は、休止符の内容を伝えない。
     義仲と交替した任地(京都)施策で歓迎される義経。おそらくは、頼朝・範頼の兄達と違った幼少の経歴が、――伸びやかな平泉での棲息が、源氏忍従の前史と その教訓から生れた新体制への配慮を義経から奪ったに違いない。封建社会が替越と決め付ける行動によって、一時的解任あるいは休職処分に付されることになった。
     総司令官・源範頼は軍務と任地行政の板ばさみ(例えば徴収すべき食糧と慰撫施政の板ばさみ)もあり、約四ヶ月を停滞のまま過ごす。義経の復帰は、平氏軍団 の回復を待たなかった。「屋島戦線」から「壇の浦」へと続く海戦は、平家物語が驚愕と賛嘆で謳う、義経の天才的軍略を記録する。僅かに四十日あまり。鎌倉 から千キロを越える行程、それに重なる見事に短縮された時間は、勇猛果敢な義経の電撃戦の凄まじさを示して余りある。
  
    源平盛衰記を彩る後半の軍記、その語れば長いエピソード等の、しかし歴史の時間に残す短小さはそのまま若き軍略家の生涯の象徴でもある。世に言う「判官び いき」達は、史的事実に対する仮定を考え、それが単なる想像から創造へと進むとき、さまざまなフィクションを形成する。たとえば――
     藤原泰衡の愚かさを、われわれは何について語るだろうか?奥州王国の滅亡について、私もまた時流のうねりの中での、歴史的必然かもしれないと思うこともある。彼が父・秀衡 の遺訓を守り、義経を王国の総司令官に任じ鎌倉帝国に決戦を挑んだとき、奥州王国の勝利にそれほどの確信を抱けるだろうか? そしてまた例えば、義経と親しい 実弟達を暗殺し、鎌倉への恭順を示しつつ、鎌倉帝国に滅ぼされた愚行は、まさに節操を主題として批評の対象となるだろう。そこで、われわれは、その後の長 い歴史をとおして、源頼朝の強要に懊悩する藤原泰衡の暗愚を図ることができるだろう。戦史を含むあらゆる政治史が節操と無節操の混合史であり、また倫理的 基準が決める悪が決して滅びない実例を無数に挙げるとともに………。


     平家物語は周知のように勧善懲悪の物語ではない。善悪、正邪が語られても、それは部分的素材としての扱いを超えず、主題はあくまで「無常感」である。冒頭の「盛者必衰の理」がそれを明らかにしている。
     ――天下の乱れん事を悟らずして、民間の憂ふる所をも知らざりしからば、久しからずして亡じにし者どもなり。
  そして、われわれは、「驕る平家だけが久しくない」のではない記録を読むことになる。この、例えば現代論理学における「非・排他的選言肢」を前提とする命題は、やがて「すべて空」という究極の無常感へ向う主題の明示につながっていく。
      いま、この文体(スタイル)を、私は仮りに「中世的古典主義リアリズムの一つ」と名づけてみる。簡単に説明すれば、主観的情意の排除、ということである。読者の胸を打つ情感は、読者の脳裏に拡がる連想と同様に、「無常感」という動かしがたい客観的附与が招来する結果であり、この読者に個有の拡がりこそ、私が言う古典主義的デッサン感覚の特性と言える。
      更に、この古典主義を明確にした戦記文学として、私は太平記を例示することができるだろう。平家物語との差異については後述するが、ここにも、近代文学の 特色であるロマンティシズムの影を認めることは不可能である。同時に、個別的要因(例えば織田信長の死、ロバート・ケネディの死等)がその後の歴史形成を 違ったものにするケースの実在を認めつつ、一方で、個別的要因の如何を問わず歴史の潮流が全てを呑みこむ事実に同意するとき、私は「南北朝争乱史」が描く軌跡に、後者の事実を認めざるを得なくなる。


〔太平記の人物たち〕
      一三三五年(建武二年)、雪深い奥州の地をあとに、鎌倉・箱根の戦線に向った一人の天才がいた。奇しくも後醍醐天皇即位と同年の生れ、父・北畠親房の薫育のもとに成長した当年十七歳の、足利軍討伐司令官である。
      だが、北畠顕家の盛名は、それより二年前(元弘二年)、奥州統治の重職に任じたとき既に知れ渡っている。それは北條政府を打倒した年のことであるが、こ の革命政権による建武の体制は、その出発時から既に不協和音を奏でていた。執念にも等しい後醍醐の「天皇親政」理念は、実際に多くの支持を得られるものではなかった。それを後醍醐自身が認識していた。

北畠顕家
      この君子の周辺を眺めてみよう。まず北畠父子、理念の推進者である父・親房と、その多才な学識を受け継ぎ、加えるに、公家に似ない類い稀な軍略家として名高い嫡子・顕家。次に千種忠顕、これはこれで公家に似つかわしくない無頼振りを、むしろ好ましいものとして後醍醐自身が側近にして きた若者である。あとは外様とも言うべき武士階級出身の司令官達がいた。しかし、例えば新田義貞と楠木正成の二人を合わせても、野望に満ちた足利高氏の盛 望に遠く及ばない現実があった。それにも増して、北條政府打倒の初期から苦難を共にしてきた自らの長子、その武断主義で知られた親王・護良を、後醍醐は実父でありながら、足利高氏の術策のうちに失脚させてしまった過失もあった。
      確執のさなかに、鎌倉で異変が起こった。北條政府の残存者による反乱である。この好機を足利高氏は逃さなかった。反乱軍を鎮圧し、続いて鎌倉を占拠する。 後醍醐は出頭を命じ、高氏は拒絶する。この足利高氏が賊軍の汚名を免れようと、大覚寺統に対して持明院統の北朝を擁立するのは先のことであるが、世に言う 「南北朝争乱」――六十年戦争は、これによって幕が落とされたのである。
      討伐司令官・新田義貞の東下に対して、足利軍団はこれを三河・矢作川で迎え撃つが、またたくまに打ち砕かれ、箱根・竹ノ下に撤退を余儀なくされる。だが、 箱根戦線で劣勢をくつがえした足利軍は、今度は敗走する新田軍に追い討ちをかける。新田軍は幾度となく建て直しを計るが、劣勢のまま京都へ敗走する。
 
     奥州・多賀城を出立した当年十七歳の司令官・北畠顕家は、関東での政局の急変に間に合わなかった。そのため、進軍とともに勢力を倍加させていく強大な足利軍の後を追う形になった。
     京都戦線では、千種忠顕、名和長年、楠木正成、結城親光の諸将が防戦したが、強大な足利軍の敵ではなかった。後醍醐は京都から比叡山へ逃れ、北方軍団の到着を一日千秋の思いで待つことになる。
     北畠軍は正月十四日に坂本に到着した。暫時の休息をとるあいだ、新田軍、結城軍が足利軍の消耗を図る攻防をくり返す。ここでの一進一退が足利軍にとって、僅かな意味も持ち得ないことを足利高氏は熟知していた。同時に自らが軍略家でないことも熟知していた。――源氏政権への志と、平氏・北條の悪政に替わること、しかし武家政治を望む武家達の期待を一身に荷っていること――この一段高い視野において、その本領が政治的活動にあることを、むしろ誇りにし、また最大の武器と考えていた。
    京都北部から東部にかけて包囲網を敷きはじめた北方軍団と、それに協力していく新田軍の動きを眺めながら、足利高氏は決定的な敗北を予感する。その上で、彼は敗走への避けられない激戦と、それに伴う味方の犠牲を計りつくそうとした。



    太平記は足利高氏の性格と行動における奇妙な矛盾をそのまま記録している。その他の戦記文学に比べて読者の少ない理由の一つとして、この「天下取り」の 主役の、常に「明瞭さを欠く」行動様式が云々されてきた。ある批評家は、現代文学における心理描写の手法の欠如をその原因としてあげている。だが、私は、 そうした作者の主情性は近代文学の特質であり、それを排除し、「行動」と「言表」を積み重ねていくスタイルに、むしろ現代性を失わない中世の古典主義を見 出す。
    そして、足利高氏が普遍的な凡人の生を完うしつつ、即ち、才智において見るべきものを持たず、その血筋と支持者達の強い忠節によって初めて覇業を成しと げていくという、源系の総師の典型例の一人であることに思い至る。源義朝、源義経と比べるとき、頼朝に見られる高氏との相似、あるいは後年の織田信長に比べて、徳川家康の平凡な特性が政権獲得者のあるパターンを形造っている。・・・・・・部下の忠節を痛く感じ、その感性を最大限に誇示する。悲観と自信喪失の 日常の奥に秘めた、「時流を信じる楽観性」。


    北畠顕家が率いる北方軍の総攻撃は一月二十七日と記されている。僅か一日だけの戦闘で、足利軍はかつてない打撃をこうむった。その上、山陽道を敗走する途次 で、千種・楠木両軍が執ように加える攻撃と、再び新田軍、そして北方軍団から受けた瀕死の打撃。予想した敗北の現実の姿に、足利高氏は驚愕する。
    長い戦歴での初めての体験とはいえ、そもそも高氏の戦歴に激戦は殆んど無かったと言える。北條政府打倒の第一殊勲者とされたが、それは建武体制を確立する ための後醍醐による政治的配慮にすぎない。北條政府の高級武将として楠木軍を包囲していた高氏が、反転して六波羅攻撃に向い、その長子を鎌倉攻略軍に合流させたときは、既に趨勢は決していた。
    群馬・新田ノ圧から南下して、激しい死闘の末、鎌倉攻略を果したのは新田義貞が率いる関東軍団であった。


    「太平記」と並んで南北朝争乱史を記録した「梅松論」は、興味深いエピソードを伝えている。大敗を喫した足利高氏の現実的思考と名分にこだわる、いつも の矛盾の中で、その特質とも言うべき政治的配慮を怠らない姿。むしろ、政治的行為を超死回生の積極策とする姿と言えよう。建武の初期に、後醍醐を見切り、 足利高氏に従属した才人・赤松則村は、源氏政権を志す主君に有益な提言をしている。――名分を捨てて九州へ逃れるべきこと、その途次において、持明院統の 北朝天子を擁立すること。


   京都戦線での大敗は足利高氏における「生の信條」をいっそう強固にした。九州武士の多くの信望を手中にしているとはいえ、この西海の地には、後醍醐への忠節 を誓う菊地武敏が率いる強力な軍団がいた。避けられない幾多の敗北と、強いられる犠牲の中で、来るべき時流に己れを賭ける信念を貫徹する。


   北畠親房の「親皇正統記」は南朝正統論を記述するが、必ずしも武家政治を否定するものではなかった。
   そして「梅松論」は楠木正成が、後醍醐に、天皇の臣下としての武家政権を容認し、足利高氏にその任を与えるべきことを献策したと伝えている。
   北畠親房の政治理念に対して、楠木正成の現実政策である。
   だが、後醍醐はそれを拒否する。後世のわれわれは、その一事について、それを後醍醐の不明として批判できるだろうか? むしろ反対に、私は、楠木正成の現実施策のほうにこそ大局を見誤る負の要素を認めてしまうのだ。そこには、理念を欠く地方武士の典型が浮上する。足利高氏が企図する武家政権が、平安朝以降の馴れあいではないことを知らねばならない。それは、源頼朝以降の鎌倉政権の継承であったこと、その衝突から建武体制の確立が消失したことを後醍醐は熟知していたのである。
   保元・平治の二つの戦乱をとおして、天皇親政の体制は崩れ始め、平清盛から源頼朝の時代にかけてそれは殆んど力を失ったと言えるだろう。北條政権確立の時点では、北條義時に反揆する天皇が、むしろ謀反者として扱われた史実さえ生まれている。それ故にこそ、後醍醐の胸中を充たす、執念にも等しい「復古理念」であっ た。
   だが、その理念について、太平記は、後醍醐の「観念と現実」の中の混乱、そこから生れる政策への忠臣達の批判を記録している。例えば北畠顕家が上奏した練書はその一つである。
   足利高氏を君主と仰ぐ一方の武家集団は、「現実的利益」に基く、いわば庶民的不特定多数を基盤としていた。時代の逆行が生む損失を拒否する、それこそ時流の形成者にほかならなかった。
   この対立図式は、「貴人的理念の脆弱さ」に対する「庶民的本能の力強さ」として記述できるだろう。


   記録と資料の集積は、それが仮りに豊富であっても、必ずと言えるほど史実の空隙を提示する。その空隙を埋める想念の中で、例えば私の場合、悲劇的な南朝の群像が甦る。
   大塔官護良親王の失脚を、北畠顕家は遥かな奥州の任地で「苦難の前兆」として受けとめていた。稀代のアジテーター・後醍醐の、一方で裏表常ない外交戦術のなかで、いち早く足利高氏の野望を見抜いていた護良である。足利直義(高氏の弟)もまた護良を葬るべき危険人物と見透していた。足利の術策に陥った後醍醐の、 実子売り渡し劇がその結末だった。もともと後醍醐は、武断主義の護良を疎んじていたと伝えられる。しかし一方で、無頼漢公家とも言うべき千種忠顕への偏愛は後醍醐の性格的な矛盾のひとつと言えるだろう。
   建武体制が与える恩賞に酔い痴れた千種忠顕の愚行の数々が思い出される。また、出自不詳の楠木正成が示す皇家への忠誠――、そこに秘む野心と実利の匂い。初老の名和長年には幾ばくの力も残されていなかった。僅かに新田義貞の関東軍、菊地武敏の西海軍に一縷の望みを託すだけかも知れない。
   だが、鎌倉壊滅戦における新田義貞の猛勇は、策を知らぬ激突戦だけを身上とする下級武士の非才を露わにする。わが思いの正しさ故に・・・・・・、顕家は憂慮するが、思惑の渦は各人各様のうちに既に建武体制の中に充ちていた。
   奥州統治という重責の拝命は、若冠十五歳の北畠顕家に希望を与えた。広い北方の地で、己が学識と軍略統治を経世に生かすことができる。残された都の不安について、――それは父・親房と親王護良に任せるほかない。
   やがて一年半ばの歳月を経て――
   此処、奥州の地にも足利軍の策謀の触手が蠢動を始めていた、だがこのとき、北畠顕家は箱根に向って多賀城を出立しなければならなかった。足利討伐後すぐにも引き返す算段は、しかし、緒戦の勝利を 確保できなかった新田義貞の拙策によって消失してしまった。立て直しの成らない新田軍は京都へ敗走し、追走する足利軍を追って北方軍団は遂に京都までの行程を果してしまった。
   ――なんという新田の脆さよ。
   怒りを圧えつつ、少年司令官は、京都周辺に湧き立つ歓呼の迎えを冷視して、そのまま軍団に休息を与えた。異才とは耳にしていたものの、十七歳少年の怒りと休 息に身勝手だけを見る諸将の中で、顕家休息の期間に、最も果敢に足利軍を攻めたのが新田義貞であった。自からは公家の身でありながら、顕家が矜持してきた武人の真情を、このとき初めて、彼は義貞の内に認めた。


   過年の鎌倉陥落について、北条政権の滅亡について、「新編武蔵風土記」は、新田義貞南下の進路を詳細に記している。そして、最大の決戦場として分倍河原が記録されている。分倍河原戦線で激突した坂東武者どうしの壮絶さは「太平記」にも記述が見られる。
   新田義貞を支配する情熱は、同じ源系に発しながら、足利高氏に比べて常に下級武士の地位を定められてきた己れを、一級武士として認めた後醍醐への限りない忠節にあったと言えるだろう。
   後醍醐の政治性はしばしば自らの首をしめる結果を招来している。親王・護良を足利軍に引き渡した愚行もさることながら、南北朝争乱の初期に、新田義貞に足利追討を命じつつ、政治的配慮から自らは関知しない装いのもとに、源系二人の私闘であるかの印象を世に与えた。
   だが、そのもたらす結果の乖離作用は余りに明白である。利益堅守の現実主義に、権威主義の容認もまた含まれる。「天皇」の権威の消去によって、当然のように足利軍に馳せ集う数の増加が続く。更に例えば、戦闘における僅かな蹉跌さえが、新田から足利に鞍替えする士卒の数を増すことになる。箱根戦線の劣勢をくつがえせなかった義貞の苦悶が想像されよう。そして遂に、あの最強を誇った関東軍団の殆んどが足利軍に奪い取られ、新田義貞は自らの軍容形成を越前に求めるほか無くなっていた。
   同僚達による軽視、表裏常ない主君のもと・・・・・・、その中で信念を曲げず、常に最前線司令官として困苦を自らに課し続けた、この源系武将の孤影に「哀れ」を想うのは私だけではないだろう。


    京都奪回、続く山陽道での痛打、と、足利討伐総司令官の任を完うした北畠顕家は、後事を父・親房に託すと、奥州路を急がねばならなかった。
     ・・・・・・二年前、彼の前方に拡がる同じ山野は、彼が描く未来の北都の可能な姿を告げていた。それも今は、遥かな過去の思い出にすぎない。時をおいて脳裏をかすめる死の影がある。影は、戦勝の確かな反映であった。大勝に酔う南朝の諸将たち。だが、やがて九州を飛躍の足場にして来るだろう足利高氏の威力が、確かなこととして顕家の想念を支配していく。一方の高氏は、「学才を誇るだけの公家少年」とあなどる対手から受けた打撃に、それは完遂すべき野望の途次に支払うべき犠牲の高値なのだ、と覚悟したように・・・・・・。そして、顕家の連戦連勝が到達する最後の地点。そこに見透される影像は、栄光を包み被う暗い死の姿に他ならなかった。
    敗戦の中で、着実に手をうつ高氏の不思議な才覚・政治的布石。例えば、この奥州の地にさえ、その触手は既に伸びている。だが、九州で孤軍奪闘する菊池武敏の破滅は意外な早さで伝えられるだろう。北方軍団に要請される第二次遠征は遠い未来のことではない。
    己が「継世の才智」を十全に用いる機会は遂に来なかった。おそらくは帰省地・多賀城の放棄から事は始まるだろう。いま右手になだらかな曲線を浮き上がらせている霊山城を拠点に、しかし、苦しい奥州経営が強いられよう。



    太平記全巻を貫く主題はない。人物たちの言動を記述するだけの単純なスタイルは、複雑な背景を提示する唯一の手法と言えるかもしれない。だが、この前衛性は、主題を彩る情感を求めた近代以降の読者を遠ざけてきた。
    これに比べて、同じ古典主義作品「平家物語」の場合、部分的主題が新たな展開へつながるプロットの運びは、独特の技法としての評価より先に、説明的要素として読者に歓迎された。そして、全巻を貫く主題「無常感」が、この戦記文学の読者を、くり返される理解へと導くのである。


     北畠顕家。石津戦線(堺の南方・石津川)で敗死。享年二十歳。
九州から回生した足利軍団の恐るべき数量は常に南朝連合軍を圧倒していた。顕家が率いる北方軍団の参戦が、ようやく南朝側に有利な展開を生んだ。しかし、足利高氏は、数度にわたる大敗の中で、長行程を経てきた北方軍の疲労を待ち続けたのである。顕家の死の後に、新田義貞と楠木正成の死が続いた。
     ――其戦功徒ニシテ、五月二十二日、和泉ノ堺阿倍野ニテ討死シ給ヒケレバ、相従フ兵悉ク腹切リテ、一人モ残サズ失セニケリ。
     太平記が伝える北畠顕家の最後である。死の一週間前に、顕家は後醍醐に上申する誡奏文を書いている。その憂国・忠節に人々は涙するが、私は、溢れるばかりの智略と理念を内に残したまま死を覚悟せねばならなかった若き司令官の悲憤に涙を流すだろう。


    以後、南北朝争乱史は、第二世代達に引き継がれるが、それは歴史の蛇足にすぎない記録と言える。足利高氏・直義兄弟の骨肉の争闘が複雑な三つ巴を描くが、それもまた源頼朝からこのかた、源系権力者に宿命的な血の相克にすぎないと言えよう。

フランソワ・モーリアック論


第1章  「J・P・サルトルによる例題」
第2章  「グレアム・グリーンによる論評」


                                     2000年8月15日論述



第1章   ジャン・ポール・サルトルによる例題、そして、フィクションの形式

  オックスフォード大学の哲学の学究として出発し、やがて小説家に転じた一人の女性作家による「サルトル論」は多くの興味深い問題を提供している。アイリス・マードックは、このサルトル批判の主題を、対象を規定する用語として、そのままサブタイトルにした。「サルトル――ロマン的合理主義者(SartreRomantic Rationalist)」。


  その論述はサルトルの全容についてのほぼ完ぺきで明解な提示と言えよう。しかし、このサブタイトルが示す内容には、僅かながら判然としない、未明の部分が残されている。
アイリス・マードック
  そこで、私ならこう規定する、という補正の意味で、次のようなサブタイトルを附してみる。「サルトル――操作的観念主義者(Sartremanipulative Conceptualist)」。
  だが、上の言語ゲームは、当然のように、本論の主題を示唆するものではない。ここでサルトル論やマードック論をする誌面の余ゆうはなく、あくまで、「サルトル的例題」への考察を基点に「フランソワ・モーリアック論」への道程を示す一つの座標として私は扱うのである。

  例題の中心として、一九三九年にサルトルが発表した論文、やがて批評文集「シチュアシオン(Situation)」に収録された、「フランソワ・モーリアック氏と自由」を例示の対象にし、幾つかの問題点を摘出してみよう。
  一つの仮定を提出する。
  もし、読者が、この論文について少しの予備知識もなく、しかも最初に論文の末尾を読んだ場合……、という仮定。その末尾とは次のとおりである。
  ――モーリアック氏は自己中心の態度に徹した。彼は神の全知と全能を自らの立場として選んだ。だが、小説は一個の人間によって多くの人間のために書かれるものである。外観に突きあたり、その外観にとまらず、それを透視する神の眼から見れば、小説もないし芸術もない。芸術は外観を糧とするものだからである。神は芸術家ではない。故にモーリアック氏も芸術家ではない。

  最後の二つのセンテンスは、この一文の性質が論文であるというよりは詩的批評であるとの印象を読者に与える。なぜなら、ここでの比喩の対象である神(キリスト教の神)が、論証の要件として扱われる性質のものでないことは万人が熟知しているからである。だが、読者が直面する奇妙な矛盾が持ち上がる。この二つのセンテンスに見られる断定のスタイルが詩的表現とは無縁であるばかりでなく、断定へ至る道筋が論証的性格を明白にしていることによる。そして、われわれの予備知識は、この一文に限らず、サルトルのすべての論述が「論証」を心がけた「論理を装った」文脈で貫かれていることを想起させる。
  注意深い読者が必らず気づくはずの、サルトル的例題のすべてを被う「非論理性」が、この文章家の本質を形成する矛盾として、ここに附加されねばならないだろう。例えば「彼女は昨日海岸へ行かなかった」は、「彼女が昨日海岸へ行った」事実についての論議である。同様に、私が「サルトルの非論理――即ち、論理的過失」を論ずるのは、「サルトルにおける論理的文章構成」の事実を前提としている。したがって、詩的表現の創作に対して、その作品の価値如何を問わず、もし論理的判断を加えるとすれば、それは無意味な愚行と言うべきである。

  そこで、先に引用例示したパラグラフを導く、サルトル的例題の主要な問題点から彼の論理をたどってみよう。
  論文のタイトルとした「フランソワ・モーリアック氏と自由」における「自由」は、サルトルの一見多義的な論述にもかかわらず、一つのことに問題は限定されている。論旨を要約すれば、作家モーリアックがその作品「夜の終り」のヒロイン、テレーズ・デスケルーの自由を剥奪したとする批難である。では、登場人物における自由とは何か? この論文はもちろん、彼の数多い論述を参照しても、この主題の解明、あるいは解明のための例文さえ見当らない。彼は主題の範囲をより狭く、批判の対象だけにしぼって、――登場人物の行為に予定される、作者の予断的支配権、として取り上げる。
――すぐ前のところで《自分の運命のリズム》を口にしていたのが、ほかならぬテレーズではないか。自由はこのリズムの過程の一つである。テレーズはその自由においてさえ、先のわかった女なのである。モーリアック氏はテレーズに殆んど独立性を与えていないし、この僅かな独立性さえ、まるで医師の処方箋のように正確にその量を計って渡している。

  サルトルに特有のポリティカル修辞法がここにはある。人間の傾向や性格など、本来計量し得ない事象についての計量的批判――、だが、読者は話法の一種として、それを容認する。その時、こうした論法の断定の強さだけが、ある真実味を帯びていく。
  その上、「テレーズ・デスケルー」とそれに続く「夜の終り」の二つの小説のヒロインが、サルトルがその論旨を進める上で必要前提とする、単純な「霊肉葛藤の二者択一」的な状況にあるとは決して言えない。
  テレーズ・デスケルー。聡明で、自己主張が強く、自らの存在意義にこだわる女。ボルドー地方の沈滞した雰囲気に己れの生息を見出せない進取の気質。だが、結婚という形態によって、彼女がいつか激しく反撥する環境に身を置くには、広大な松林の所有者の妻となる虚栄心と、遅まきながら眼覚めた性欲で充分だった。気だるいブルジョワ社会を嫌悪するブルジョワ女性。やがて、彼女は夫に対する毒殺未遂犯となる。

  相異なり、対立する二つの志向に引き裂かれた一つの魂。読者がそう読むことは妥当である。だが、混沌は、複雑な絡みあいの中から相貌を現し、やがて、ある美学的秩序の中に見事な構成を示していく……。これがモーリアック文学の一つの特質であろう。そして、この秩序は、プロットとして語られることを不可能とする。それはキャラクター(登場人物)の探索と、一つの雰囲気――普遍的で、独自な雰囲気――との融合から成り立つ。

  サルトルの論理的修辞、著しい錯誤を含む前提から出発する論述に対して、私は猶予を与えることは可能だろう。彼が好む論証的推論に対してではあるが、ともかくも、この論文は、数学や論理学についての論文ではないからだ。しかし、この猶予の提供にもかかわらず、根本的な疑問は依然として残されるのである。いったい、登場人物における自由とは何なのか?
  解答は一つしかない。「自由」の語用がヴェールの役割を果しているものの、透視された実体は、ヒロインの結末への興味を昂めていく不可視空間の設定をよしとする、あの伝統的筋書の一つにほかならない。言いかたをかえれば、ある形式が読者に強いる「未開領域」の持続への偏重である。
  才智に恵まれた、やはりフランスの知を担う一人には違いないこの文章家は、しかし、この錆ついた文学論を明示するほどナイーブではない。そこで彼は、登場人物における視点の問題として、文学論を展開する。
  ――はじめは作中人物と一体となり、次には突然これをやめて、裁判官のように外部から考察するこの手法は、モーリアック氏の芸術の特徴なのである。
  ――まだテレ―ズの心のなかにいるつもりが、数ページも過ぎれば、われわれは早くもテレーズから離れてしまい、モーリアック氏とともに外からテレーズの顔を眺めている。それはモーリアック氏が≪第三人称≫のもつ小説のあいまいさを利用しているからである。

  サルトルによれば、小説家が≪第三人称≫の表現形式を利用するのは、読者に共犯関係を強制しないためであり、≪私≫という幻惑的な親近感にニスをぬるためのものである、という。
  サルトル的修辞法の混乱がここにもある。それは主に二つの点に発している。前記の「作中人物における作者からの自由」の問題と同様に、この「視点の純正保持」も厳密な意味では存在せず、その限りにおいて、サルトルが自らの特質として顕示する哲学的、論理学的考察は、初歩の段階で誤謬が予定されてしまっていることになる。そのとき、彼は、論理的推論が読者に与えるだろう「ひびきの強さ」を残しつつ、文学が必ずしも論理になじむものではないとする「常識」を利用する。つまり、私は論理的分析をしているのではない、文学状況(シチュアシオン)を語っているのだ――、という欺瞞の表示である。
  彼の文学論的体裁に理的外装がつきまとうのはそのためである。例えば先記の≪三人称形式≫の意味に関する理論も、理論武装の要請に基く所論であり、普遍的真実を備えているものではない。
  そこから「サルトル的修辞法」における二つめの混乱が現出する。右記の≪三人称形式≫についての所論が、サルトルにおける文学主張か、あるいは一般的なのかは常に判然としない。だが、彼は、必らずといっていい程、「本来、文学とは……」式の、伝統と一般性から論旨を始める。「モーリアック批判」の幾つかの要点についてもそれは言える。しかし、「視点の純正」にしても「作中人物の自由」についても、あるいは後述する「文体論」についても、無数の資料と文学史が、サルトルの主張が決して伝統に基くものではなく、また一般論を形成していないことを証明する。そのとき、彼は次のような言辞をそっと附け加える。
  ――もっとも、わが国の作家の多くもそうではあるが。
  それに続く文章が、――モーリアック氏は自己中心の態度に徹した。……。の、本稿で最初に例示したパラグラフなのである。

  では、伝統と一般性を否定する、サルトル独自の文学的思想なのか?勿論、そうではない。そうではないことは既にサルトル自身の言表に示されているし、また、それでは「モーリアック批判」の意味は消失する。しかも、サルトルは、こうした文学理論的外装が、真の理論を形成するほどの主題と構成に欠けていることを熟知しているが故に、誰が読んでもその種の論文とは違うことがわかる論述をしている。その違いは、例えば、ポール・ヴァレリーの幾つかの論述、フランソワ・モーリアックの「小説論」等、またナタリー・サロートの「不信の時代」やアラン・ロブグリエの「新しい小説のために」、そしてフィリップ・ソレルスの「フィクションの論理」などを読めば一目瞭然であろう。

  矛盾の補正作業が新たな矛盾を生む連環の中で、サルトルは、アイリス・マードックが評価すべき特質としてあげる「政治的アジテーター」の本領を発揮する。即ち――、たとえば「ABを人一倍愛し、そのためBを誰よりも憎んだ」という言表が、Aの中の矛盾を説明する「矛盾のない表現」であることに敏感なサルトル、……したがって「ABを愛している」あるいは反対に「ABを憎んでいる」も真な命題であるが、「AとはBを愛する人間である」あるいは反対に「AとはBを憎む人間である」の全称的判断においてはじめて錯誤を形成することに敏感なサルトルは、矛盾と、その修正がもたらす新たな矛盾を、切り離した位置に布石する。布石の意義は、部分的批判に対する一種のアリバイとしての役割にある。
  その上で、彼は、外国作家の作品から具体的ではあるが部分的な例示をする。例えば、より伝統的なスタイルを堅持するジョゼフ・コンラッド、あるいは斬新な文体がフランスの新しい小説家達に与えた影響は大きいが、前衛的試みとしては、モーリアックに比べて皆無に近いアーネスト・ヘミングウェイ等である。しかし、その部分を離れれば、サルトルがする批判は、これらの作家に対していっそう適合していくという、また新たな矛盾を生み出す始末である。

  モーリアックの文学に親しんだ人達が、この私の「サルトル批判」に、ある苛立ちを覚えているだろうことを私は感じている。サルトルが主張する「視点の純正」について、作中人物の視点を貫くか、あるいは≪三人称≫形式の厳密さを守るかで考えた場合、サルトルが主として論ずる三人称形式が結局は「まやかし」であることを、新しい世代の作家達は、その理論と実作の業績とおして示している。例えばフィリップ・ソレルスは「小説を書く行為の小説」とも言うべき「ドラマ」によって、またアラン・ロブグリエの「覗く人」等、≪一人称≫形式の極限への試みにそれはうかがえる。
  サルトルは「視点の純正」の欠如をモーリアック作品の全てに共通する特徴だという。そして読者たちは、この「夜の終り」(一九三五年)より以前の作品のなかに、例えば代表作の一つ「蝮のからみあい」(一九三二年)のような、≪一人称≫形式による視点の統一を主人公の視点だけに限った作品があることを知っている。

  ところで、幾つかの要点を摘出し、その論理的誤謬を私が指摘してきた、このサルトルの論述について、その矛盾には論者と同様に私も眼をつぶり、一つの文学論として考える執行猶予を与えたとする。それはサルトルにとって、おそらく迷惑に違いない猶予ではあろうが……。そのとき、文学主張としては僅かな斬新性もみられず、主張としては余りに動脈硬化的な固定性を示しつつ、しかし例示の量に比べて明解さに欠けるこの文学論に、われわれは美学につながる要素を少しでも見出すことができるだろうか?
  否、であることは、そもそも論旨の矛盾が証明しているが、こうしたすべては小説美学に関わる問題ではないことだけは明らかである。サルトルの批判が回避される形式にのっとって誰かが小説を創った場合、それは単に一つのスタイルの呈示にすぎない。私は仮定に対する推論として述べたが、誤ってはならないことは決して仮定ではない事実であるということである。サルトル的矛盾の殆んどが、論点の発進地を一般性におき、その一般性が評価の基準であるとする論証にすすむからである。美学上の問題提起は、この段階で放棄されている。

  ところで、上記の一般性さえが錯誤とされるとき、われわれは一人の文章家におけるこの特質をどのように理解すればよいだろうか?
  アイリス・マードックは、ロマン(小説創造)的合理主義者として、彼を理解する。彼の創造行為にみられる矛盾を、彼の実存主義とは正反対の彼の思考性のなかに求める。――実存よりは本質への関心の強さを示す、とマードックは、はっきり断定する。
  しかし、マードックの論点はその明解さにもかかわらず、実証的に過ぎるため、直観がもたらす解明への認識を欠いている。例えばサルトルの有名な小品「実存主義はヒューマニズムである」について、果して実証的分析は可能だろうか?この小品についての詳述は別の機会にゆずるが、この実存が本質に先行することの明証も、また何故それが比重を持つのかについて、常に不明のままである。
  空疎な観念の構築は、その操作によって影響力を強くする。私がサルトルを「操作的観念主義者」と名付ける内容は、マードックが「政治的アジテーター」と評する内容と大きく重なる。
  モーリアックの次の言葉は示俊に富んでいる。その代表作の一つ「パリサイ女」(一九四一年)について、――サルトル氏のおかげで、この小説は生れた、とモーリアックは語った。
  その時代精神の影響もあって、技法として語られることを好まないモーリアックが、実は多彩な技巧家であることは見落されがちである。モーリアックにおける文体論的試みは後述するが、彼は、サルトルが求める形式を十全に充たす小説を書いたのである。それは最も伝統的な語り口、つまり主人公について語る脇役の個性的な設定にほかならない。そして、この作品が彼の代表作と言われるのは、その伝統的な語り口によるのではなく、あくまでモーリアック的世界の拡がりと深化についての評価によることは銘記されねばならないだろう。
  サルトルにおける世界的名声が、その発言や論述に対して無条件の評価に結びつくのは、残念ながら日本だけに限られた事情である。
  私は、一時期の日本の流行現象を誘発したサルトルの「視点」問題、今となっては、取るに足らない提起について、二つの意味から書こうとした。一つは権威主義への批判であり、もう一つは、サルトルによる例題が、モーリアック文学を眺める上でよりよい視点を提供すると思うからである。その上で、グレアム・グリーンの「モーリアック論」を併用しつつ、次号にそれを論述したい。




第2章    グレアム・グリーンによる論評、そして小説の文体


   グレアム・グリーンは、イギリスの読者に伝える最優先の要件として、モーリアック氏が「偉大な伝統継承の作家たち」の系譜に属することを述べている。

  ――彼は次のような作家と言える。つまり、彼にとって眼に見える世界は常に存在し続ける、そして、彼の作中人物たちは、その魂が救われるにせよ失われるにせよ、魂を持った人間としての実体と重要性を兼ね備えた人間である、という種類の作家……。
   上記の文は、彼の批評文集「The Lost Childhood and Other Essays」に収録された「フランソワ・モーリアック」のなかの一節である。
   この一冊は、G・グリーンが「ザ・スペクテーター」「タイム・アンド・タイド」「フランス・リブル」等の定期刊行誌紙に寄稿した批評・エッセーから成るが、四部構成の中の第二部「作家論」の一つである。ヘンリー・ジェームズやチャールズ・ディケンズ、あるいはヴァージニア・ウルフ等、イギリス作家達についての論評の中で異色とも言える唯一の外国作家論である。
   例示に明らかなように、グリーンは「偉大な伝統継承者」の条件を、the visible world (眼に見える世界)と the solidity and importance of men with souls (魂を持った人間の実体と重要性)に対する認識と表現に求める。

   上の二つの条件に見られる喪失状況を、この「モーリアック論」でグレアム・グリーンは、――ヘンリー・ジェームズの死以降、一つの災厄がイギリスを襲うことになった、という書き出しで提示する。
   ――なぜならば、ジェームズの死とともに、イギリス小説から宗教的意識が失われてしまったからであり、この宗教的意識とともに、人間の行為の重要性への意識が消滅してしまったからである。これは、いわば、フィクションの世界が一つの次元を失ったに等しい。
                            (原文参照①)

   その結果、グリーンによれば、例えばヴァージニア・ウルフやE・M・フォスターのような著名な作家の描く人物さえが、軽薄な世界をさまようボール紙製のシンボルにすぎなくなったという。
   もう一つの(偉大な伝統継承者の条件)の欠如の例示として、グリーンはV・ウルフの「ダロウェイ夫人」をとりあげる。たとえばリージェント街を歩くダロウェイ夫人によって、読者はその街の光景を伝えられる。だが、その情報は、確固として存在するリージェント街ではなく、あくまで作中人物ダロウェイ夫人の純正な視点が作り出す一つの感傷風景にすぎない。それに対して、例えばチャールズ・ディケンズの不滅の作中人物達と、彼等が棲息する住居等と、いずれもそれ自体の存在の重要性によって成立する。そして、当然のように、この世界は、作者の視点によって歪められる部分のあることは否めないだろう。だが、作中人物によって二重の距離から歪められることはないのである。

    G・グリーンは、イギリス小説におけるこうした流行現象に対して「教条主義的“純粋”小説」(the dogmaticallypurenovel)の語を適用する。そして、この潮流の創始者がギュスターブ・フロベールであり、それはイギリスにおいてはヘンリー・ジェームズによって大きな成果をもたらされた、とする。だが、この「純粋小説」における倫理的判断や超自然的行為への狭路は、ちょうど、あの「子供達の迷路パズル」の「逆」であり、到達地点から出発し、外部へ向うため、今度は入口を到達地点としているにすぎない。
   こうした状況について、グレアム・グリーンは次のような明解な判断を持つ。
   ――私はフロベールやジェームズの偉大さを否定しているのではない。小説は今や美学的構成への志向を失ってしまった。そして、この二人は、そうした小説に芸術的良心を思い起こさせたのである。
  責任のすべては後継者たちにある、とグリーンは言う。
  ――盲目的に受け継いだ技法上のドグマによって、小説を、感性に乏しく生命力の無い形式(習慣的に維持されるだけの形式)にしてしまったのは、あとに続く作家達なのだ。ここでは作者の排除はより徹底されることになる。だが、作者の方にも、気の毒なことに、存在する権利はある。そして、モーリアック氏はこの権利を再確認する。
                          (原文参照②)

  私は、前号(七月号)で、ジャン・ポール・サルトルの「モーリアック論」から、≪作中人物における作者からの自由≫と、それに伴って展開された≪視点の純正≫の問題をとりあげ、その上で、小説美学の見地からフィクションの形式に関するテーマを提示した。当然、この論述の多くはサルトル批判である。そこで前号で記したサルトル批判の概略を述べるにあたって、私がかつてある誌に載せた私自身の論述からの引用を適切と考えた。


    「十分に充当されない説明の因は、殆んどが論理的過失に基いている。
  それを、文学論と称する論理を超えた部分の現存が生む必然と見せつつ、一
  方で、彼が得意とする外皮的論理構築、そのため外見上の整式だけで成り立
  つ推論式が、しかし、読者に与えるであろう影響の強さも、また利用するこ
  とを忘れない。
    たしかに、作中人物テレーズ・デスケルーの視点や行為に、作者モーリ
  アックの観点が入っていることは事実である。だが、この場合、問題は、作
  中人物が作者に対して完全な自由を獲得するということは、いかなる具体的
  表現をとおして可能なのか、なのである。作中人物の視点の純正についても
  同様である。
    サルトルにおけるこのドグマ、あるいは観念、そこに具体的な内容を探
  ねても誰も見出すことはできない。彼のあらゆる著作物を参照しても、僅か
  な解答も存在しない。
    そのとき、彼の空疎な文学論よりも、彼の≪真正な意味で哲学的とは言
  えない哲学的思考≫と≪論理的過失から始まる論理形式的判断≫が浮かび上
  がるのである」


   上の論理的過失については前号で述べたが、その推論は伝統的形式論理学が分類する殆んどすべての誤謬を含んでいる。読者の誰もが判別できる誤謬としては、三段論法を応用した演繹推理で、常に大前提が不確定要素の上に成立していることと、同時に大前提が別のところで論者自身によってくつがえされている矛盾であろう。
   一方、サルトルにおける哲学的脱落は次のとおりである。
   「存在」「認識」等について、既に十九世紀に始まる現代哲学は、伝統的哲学に厳しい反証を突きつけてきた。二十世紀の人・サルトルは、先の主題についての現代哲学の言語分析方法を、「作中人物の自由や視点」に利用しようとする。だが例えば、「論理実証主義」の極端な客観性と反形而上性に対応する性格を彼は持っていない。一方、言語分析哲学に求められる精密な言語思考(例えば、日常言語派における語用論や形而上性の容認も、結局は精密な言語活動に基いている。)は、ドグマティクな彼の傾向と相容れることはない。
   それは、ちょうど、彼の実存主義が、伝統的な実存哲学の系譜と無関係である事実と相似する。(無関係という語は、当然ながらアンチテーゼの立場にも入らないことを意味する)。

   私はかつて、サルトルのために一つの造語を考えたことがある。それはCounter Studying(対敵学習活動)という語である。Counter Espionage(対敵諜報活動)と同様に、彼の生存(サルトルにおける存在理由)を脅かす敵(状況、理論)の現前によって喚起される情熱である。そして、彼の主たる敵として、フランスにおけるキリスト教の現前があげられるだろう。
   だが、ドグマティストは必然的に「前衛」を拒否する。それは教条主義と権威主義の親近性を考えれば一目瞭然である。ここから、サルトルにおける奇妙な矛盾が量出されるのである。現代哲学の匂いを添えつつ、哲学的欠落を生じさせる所似である。


グレアム・グリーン


   グレアム・グリーンの「モーリアック論」が、サルトルへの反論をモティーフとしていないことは明らかである。美学上のテーマとしては、イギリスにおける「純粋小説」に対するアンチテーゼの形をとる。だが、その内容は、当然のようにサルトルへの反論を含んでいる。それは反論というよりは、イギリス純粋小説への批判が、サルトル論述を無意味なものと斥けている帰結を読者が認知する、と言うべきかもしれない。サルトルの観念的言表に比べて、グリーンの具体的記述には哲学的論述は排除されている。それでも、作中人物の視点にこだわる純粋小説家が、作者の観点を固持する伝統継承者に比べて、彼らこそ二重の距離からの歪曲を生みだしている、という見解は、哲学的な正当性を伝えてくる。
   作中人物の自由、あるいは視点の純正についての観念主義者の所論は、芸術作品が人為によるイリュージォンの容認の上に形成されるという哲学的真実(科学的事実)への拒否から生れる。それを現実認識であると錯覚する巨大なイリュージォンは、美術におけるコンセプチュアリストと全く等質である。両者における別の類似性も、観念操作者の特質を示す。即ち、最も非哲学的で、曖昧で、何の実体も指示し得ない言表にもかかわらず、それを哲学的であると錯覚する共通性である。

   作中人物の「完全な自由」そして「純正な視点」とは、結局のところ、人物達の型(パターン)を決定することで成立する。とすれば、作者の観点を排除する純粋小説が、自由の消失度が強いという背理を導く。そして、主観が公正な伝達を完うできない常識は、創造された作中人物に加わる作者の観点と、型にはめこまれた人物達の観点との、二重の歪曲が純粋小説の宿命であることを明示せずにはおかない。ここにいたって、アイリス・マードックが断定する「彼の主義とは反対に、実存よりも本質に強い関心を示す」サルトルの自己矛盾が露呈されることになる。


   フランソワ・モーリアックの代表作の一つ「パリサイ女」について、グレアム・グリーンは興味深い文学論を展開している。その例示をグリーンはフランス語の原文のまま提示する。
   ――あの日、かつてはぼくの敵だった孤独が、仮面を取り去って現れたのを初めて見た。だが、今は、ぼくは孤独と結ばれた間柄になっている。ぼく達は互いに知り合いなのだ。孤独は想像できる限りの打撃をぼくに与え、もはや打つべき場所がぼくの中にはなくなっていた。ぼくはその罠を一つでも避けたいとは思わない。今では、孤独はぼくを苦しめることをやめてしまった。この冬の幾日かの夜を、ぼく達は向かい合いながら暖炉の火を掻き立てている。こうした夜は、松かさが落ちる音も、夜のすすり泣きも、人間の声を聞くのと同じ興味をぼくの心によび起す。
                             (原文参照③)
   G・グリーンは、この小説がフロベール的形式の痕跡を残していると指摘する。語り手の少年「ぼく」は事件の展開で一役を担い、どの言表も、純粋主義者たちには、フィクション上の「ぼく」の属性であると考えられるだろう。しかし……、グリーンは、この属性を錯覚させるフィクション上の外観は薄地仕立てであり、その「ぼく」を支配する作者の「ぼく」を強調する。
  モーリアック自身が、サルトル氏のおかげでこの小説は生れた、と語った事件を思うとき、皮肉なひびきを持つグリーンのこの言説は、サルトルの文学観への鋭い批判であるばかりでなく、普遍的とも言える文学論の主要件を次に予定することになる。
   モーリアックの作品について、プロットの詳細な分析は殆んど意味を持たないだろう。読者は、彼の作品の事件の経緯を、半年も過ぎれば忘れてしまうに違いない。事件の複雑さは、この特徴をいっそうきわだたせる。そのとき、読者の記憶に鮮明なのは、作中人物だけとなる。
   例示したモーリアック文学の特質とも言えるパラグラフは、……グレアム・グリーンは次のように述べる、――シェイクスピア劇におけるような突然の緊迫感を読者に与えずにはおかない。静寂が精神を被うかのようであり、この重要性はリア王や将軍オセロそのものをはるかに凌駕する。それはプロットが左右する事柄ではない。
   そして、グリーンは、モーリアックの芸術における「美学に叶う要因」として、フィクションの「ぼく」が語るのをやめ、作者の「ぼく」が語ることを最優先させる。したがって、純粋小説――即ち、作中人物の視点に偏る、二重の歪曲を生む作品――には絶対に見出せない、生きた人間の実体と、魂の現実が表現されることになる。


   存在について、JP・サルトルとは異り、G・グリーンは哲学的に妥当な認識と分析を提示する。フィクションの形式として考えた場合、作中人物の行動は、事件が事物の核心を変化させるのではなく現出させるように、ある筋道の役割を果すのにとどまる。プロットの巧拙は取るに足らない要件であり、また人間が救われるのも破滅するのも、それは行動によるものではなく思想によるのである。


   私はジャン・ポール・サルトルの「モーリアック批判」に対して、彼が論旨の外装として施す文学論を、操作的観念主義者の技に過ぎないとし、彼が得意とする哲学的言説の非哲学性と、そしてまた、論理的構築の非論理性を、具体的例示のもとに述べてきた。フランソワ・モーリアックの秀れた芸術についての、幾何学的証明の一方法である。
   グレアム・グリーンは、美学的構成を失っていったイギリス小説への批判を、モーリアック文学の秀れた特質の提示をとおして論述する。それはグリーンの文学観であり、その文学観は主として「構成(Form)要件に基く美学」論としての意味を持つ。
   そして、また、私は、グリーンの美学論のなかに、私が追及する文体論(Stylistics)との重なりを見出す。
   「文体論(Stylistics)」に関する論考を私は別の機会に予定しているが、一般的言語活動における「ゼロ度(degree zero)」の基本概念は、あらゆるヴァリエーションの考察に有効な基準を与えてくれるだろう。それは最も簡潔で、破格的要素の皆無な言語表現の地点の設定である。多様な展開は常に予定されるが、修辞学における伝統的な原理は、文体論的検討の一つの参考になるだろう。
   たとえば――
「附加(additon)」                               a+b+c→a+b+c+d                                                       
 「省略(detraction)」                          a+b+ca+b
 「倒置(permutation)」                      a+b+ca+c+b
 「代替(substitution)」      a+b+ca+B+c                          
  は、古典的修辞学におけるOrnaments(彩り、飾り)の基本的態様を示す。
実際的な対象として「個有の言語」論、「作品」論、等を考えるとき、言語行為の幾何級数的拡大作用の中で心すべき点は、評価以前の量的条件と質的外延性の存否、そして破格要素について、それをVitium(汚染・無効)とみるか、あるいはVirtus(効力・価値)とみるかの、検出に伴う価値判断が要求されるということである。
   例えば、日本語論、フランス語論の対象性を、すべての方言や俗語に適用することは誤りであろう。モーツァルトやビートルズの音楽に文体論的考察の対象性を認めても、亜流達にそれを見出すことはできない。だが、例えば、通常は唯一の作品の作家について成立しない文体論的考察を、エミリ・ブロンテのような作家について試みることは、その価値判断の優先から、例外的に可能となると私は考える。

   ハーバート・リードの「散文論」、あるいは、ソシュールの弟子シャルル・バイイの「フランス語の文体論」にみられる曖昧さは、明確な境界線の設定から拡げられる応用性という、今日的状況を準備できない先導者的役割に伴なう要件と言えるかもしれない。
   そこで、フランソワ・モーリアックを、フランス文学の伝統継承者として考えるとき、心理小説の系譜にあてはめる批評家たちの安易さは否定されなければならない。文体論的考察において、こうした系譜の個有名の抽出作業が副次的であるばかりでなく、「心理小説」の語がそもそも集合の名称として働く作用域の不確定性が指摘できよう。だが、私のこの指摘は、20世紀後半の今日的状況によって初めて可能となることかもしれない。


   私は、この個有名の抽出について、その語用としての一つの想定を考えてみる。例えばオノレ・ド・バルザックとの対比による対置性。そして、私は対置の図式を作り出す対比条件の適性に疑念を抱くのである。たしかに、こうした誘惑は、しばしば読者にとって魅力的である。例えばヌーヴォー・ロマンの作家たちを、縦の系列に寸断してみる想定は、私にとって大きな魅力であったことは否定できない。アラン・ロブグリエをバルザックの延長線上に、そしてナタリー・サロートをマルセル・プルーストの延長線上に……。
   しかし、いわゆる心理描写なるものを排除したアーネスト・ヘミングウェイの読者達は、作中人物の心理について常に盲目者の立場を強いられているだろうか?こうした疑問を今日的文学状況の中で際立たせる例がマルグリット・デュラスの世界である。シナリオに近い形式、ヘミングウェイの影響と言える心理的描写を拒否した短文の積み重ねと、今度は彼女の特質とも言えるセンテンスの間の空白。だが、読者の記憶に場を占めるものは、作中人物達の心の動きである。

   総称について、言語における意味論的考察が愚行であることは誰もが知っている。しかし、内包的共通項を総称とするとき、それは個有のニュアンスを失う。例えば「人間の小説」という奇妙な語を考えれば理解できるだろう。それを転化させた別の用語「人間喜劇」「人間の悲劇」において「人間」は接頭辞的な添えものにすぎなくなっている。
   半面、例えば「主題の小説」という名称を作ったとき、この形容詞は、本来の意味から離れたニュアンスを想像させる。そして、「心理小説」はまさに後者のケースの一例となる。そのとき、私は、形容詞の転換された語用を考えるより先に、このジャンルにあてはまるべき具体例を考えるだろう。そして見つけ出した作品は、文体論的考察の対象とはなり得ない三流小説であることに気づく。

   例えば、レイモン・ラディゲ、あるいはフランソワーズ・サガン、等である。両者の共通性は「心理的遊戯」であり、「風俗小説」的読物であろう。
    だが、例示の二人は、それぞれ大きく異なる。F・サガンの「ファッショナブル・セックス」描写に対して、R・ラディゲの観念操作性である。ラディゲにみられるアウトサイダー的特性は、フランスの偉大な伝統の傍にしばしば散見する一つの流れを感じさせずにはおかない。観念のすべてをフィクション構成にするラディゲに対して、論理的構築にするサルトル、という対比さえも可能となる。
   ラディゲの、美学的特質を見出せない作品は、一方で、バルザックの後継者を思わせている。バルザックの鋳型製造は既に著名であろう。「憎悪」「出世」「吝しょく」等の情熱の「型」の見事な成果は、しかし、サルトルが主張する「作者の視点が排除された」典型例であり、ここには「サルトル的自由」が決して自由ではない一つの例証が存在する。そしてラディゲの場合、「型」はコミュニケーションの錯綜の抽象化として製造される。この完全な「作中人物における主体的な展開」は、むしろ「作中人物が反応実験工場から送り出されるロボット」であることの明示につながる。そして、具体的記述における「型の抽象化」において、この「心理小説」が、そもそも対置を想定したバルザックの系譜に入るというパラドックスがもたらされることになるのである。


   一九二〇年代から三〇年代にかけて、袋小路の中に窒息しそうだった小説の世界に、一つの夜明けが訪れる。警鐘は殆んど同時だった。やがて文学史に比類ない軌跡を残すことになる新しい世代の台頭である。
   生気を失った人物達に生命力が吹きこまれる。例えばペシミズムにおいても、生きた人間の悲惨が提示されることである。アンドレ・マルローやアントワーヌ・サンテグジュペリに代表される「問いかけの文学」も一つのエポックを形成する。
   だが、人間の実存への深い問いかけは、「前衛的」な三人の作家によって深化をみる。
   (私は≪前衛≫という戦争用語を、その象徴的な意味で用いる一般的用語に従う。つまり、その語が造られた時代の芸術家達を指示する総称としてではない。したがって、もし簡単な定義を与えるとすれば、伝統継承において、いつか人々が習慣的に最優先事項と一致して考える固定観念からの脱皮を前提とする。そして、これに附加すべきもう一つの要件は美学的評価を伴なうことである。)
   ……フランソワ・モーリアック「テレーズ・デスケルー」(一九二六年)、ジョルジュ・ベルナノス「悪魔の陽の下に」(一九二七年)、ジュリアン・グリーン「アドリエンヌ・ムジュラ」(一九二七年)。先輩格のモーリアックは既に文壇に名を成していたが、ある前衛性の同時的出現において時期的意義が確かめられる。

フランソワ・モーリアック
   批評家ルネ・マリル・アルベレスは、この三人による新しい小説の美学的特質を「ドストエフスキーの導入」として価値づけている。それは、それまで秀れたカトリック文学者の存在を必ずしも否定するものではない。だが、ポール・クローデルの詩劇、シャルル・ペギーの思想、ジャック・リヴィエールとシャルル・デュボスの批評というように、フランス小説の伝統的系譜に名をとどめる作家はアンリ・ゲオン一人であり、特異な作家としては改宗者のジョリ・カルル・ユイスマンスの神秘主義があるだけだった。
   真にカトリック的な小説、護教文学ではなく、また伝統的であるが固定的な「心理」から脱却すべき小説は、先記のR・M・アルベレスが「ドストエフスキーの導入」とよぶ、人間の混沌とした現実認識を不可欠の要件とする。その混沌は、人間のあらゆる行動に新たな意味を見出すことであり、それはまた超自然的企図の認識からもたらされる。そして、この混沌はフランス文学の正統的特質――秩序と整合性――の中でどのように構成されるのだろうか。

   まず、ジョルジュ・ベルナノスの暗く寒い世界が、モーリアックの灼熱のランド地方と対照的であることを私は考える。ここでは悪魔がすべてを支配し、恩寵の微かな触手、その僅かばかりの希望さえ、あの「田舎司祭」の眼には消えかかる灯火のようである。
   ジュリアン・グリーンはその生国からの継承を隠さない。エドガー・アラン・ポーにおける「人間の情念と幻想の結合」、そしてナサニエル・ホーソンの閉ざされた世界。そのピューリタン的名残りが、フランス文学の土壌で、苛酷な運命を背負う主人公の破格な生に宗教的主題による統一を与える。
   頑くなに固持する伝統的な語り口。それは誰にも明らかな二人の作家の共通性である。だが、混沌への現実認識と整合性は、二人の場合、フランス文学の先験性と二人における宗教的認識の素朴で大胆な結合から生成されたと言えよう。

   フランソワ・モーリアックは、上の二人に比べた場合、ドストエフスキー的現実とフランス的整合性の課題に並々ならぬ技法上の成果を示している。彼の作中人物達、例えばテレ―ズ・デスケルーにしても、マリア・クロース(「愛の終り」)にしても、閉ざされた環境に息をひそめる姿は、ベルナノスやグリーンの世界と共通する。だが、幻想性を嫌うモーリアックは異様な設定を徹底して避ける。素材は常に地方人種、その地方は因襲が支配する。概して通俗的といえる外見性に、霊性のドラマを内在させる。恩寵は常に豊富である。ここでは、人物達は、ベルナノスやグリーンの世界におけるのと違って、自からの意思による選択可能な世界に住んでいる。人物達は、しばしば恣意的に恩寵を斥ける。それはまるで、理由のない自縛のように、自らに抗せぬ魂のありかたとして目にとまる。モーリアックがしばしばジャンセニストと誤解される原因は、こうした作中人物にみられるジャンセニズムの逆説的提示にあるのかもしれない。モーリアックはパスカルとラシーヌの愛読者だった。

   多彩な技法の成果を、この作家は、……作者の本能が導く結果、と語ったことがある。だが、それは、私にとっては同じことである。例えば、文法上の分析は、フランス語動詞の「直接法現在形」の多用を伝える。後年のヌーヴォー・ロマン作家達の試みに、私は評価を与える一人だが、その試みには文学理論の実践という性格が濃厚である。しかし、モーリアックにおける文体上の試みは、もし「試み」の語が主題の意図を内在させる言葉だとすれば、この語の適用がためらわれるほどの必然性に充ちている。
   それは、例えばこの現代作家の独特の文体に接した読者が必ず肯定する特質だと言えよう。静的な画面、突如として熱を帯びていく、きしむような語の配列。短文が重ねられる。息苦しさも、平静も、それはランド地方、大西洋にまで拡がるブドウ畑と松林に被われたボルドーの生息でもある。焼けつく陽ざしも、風にきしむ枝の音も、地方の自然と人間の、外見的静態にひそむ葛藤の表出に違いない。


   モーリアックにおける前衛性の成果は、文体論的考察に適合評価される美学的特質を抱含する。その一つとして、再び文法上の新境地に触れるとすれば、例えば代表作の一つ「蝮のからみあい」における「過去への遡及」の多彩な活用にそれはうかがえるだろう。
   ローレンス・ダレルやジェームズ・ジョイス、そしてマルセル・プルースト達が形成していった「意識の流れ」は、やはり文学理論としての意味あいが強い。
   「蝮のからみあい」は、その意味で、これ以上技巧的で現代的な小説は他にない、と言える秀作である。この作品は、例の「ドストエフスキー的混沌」とフランス的整合の見事な成果を、無駄のない、細密な網目を織りなすような文体で示してくれる。先記の文法的新境地さえが、適所に投入された適材の効用をになっている。
   主人公の告白から成るこの小説は、あの独特の息苦しい雰囲気に包まれている。貪欲で、憎悪を生き甲斐とする老人の、しかし冷徹な知性は、それが悪意に充ちた観察であればあるほど、読者は(少なくとも私は)、この主人公の内奥にひそむ魂の叫びを知る。
   過去を語る場面に挿入される現在の観点。やがて変化の兆しがうかがえる現在の状況は、しかし、過去の中の内在でもある。時間とのたわむれは、必ずしも老人の特性ではない。ここでは、それは知性の発露を意味する。モーリアックは動詞の「半過去形」を十分に利用し、次いで過去形、現在形、更に前過去形を巧みに交錯させ、その形において初めて現出する状況という必然性を呈示した。

   


   グレアム・グリーンは「モーリアック論」の結びに際して、モーリアック作品の考察に不可欠な人物としてパスカルの存在を強調する。
   ――自らが語る自由を自身に容認するこの現代小説家は、作中人物をとおして、また作者自身の「ぼく」によって、まさにパスカルの口調でくり返し語るのである。





   そして、パスカルが小説家になっていたら、きっと採用したに違いないとするモーリアックの語り口(文章)を、「パリサイ女」の中からグリーンは抜粋する。
   その幾つかを例示して結びとする。






   ――人間は変らない。これは今の私ほどの年齢になれば疑えない真実となる。しかし、人間は生涯力の限り反抗したある性向に戻ってしまうことが、しばしばある。このことは、人間が結局は自身の最悪なものに屈服してしまうことを意味しない。神は、そうした人間が最後に屈するための良き誘惑なのである。(原文参照③)
   ――人々の意志に反してその人達の生活に入りこむことはよくない。この戒めを忘れたりしないように。神のみが知る第二、第三の生活の門を押し開くものではない。もし塩の像に変えられたくないならば、他人の秘密の呪われた場所を振り返って見てはいけない。
   ――わが主は敵を愛さなければいけないと言われた。それは、愛している人々を憎まないことより、ずっと易しい場合が多いのである。(原文参照④)
                          


参照文例①
 For with the death of James the religious sense was lost to the English novel, and with the religious sense went the sense of the importance of the human act. It was as if the world of fiction had lost a dimension


参照文例②
 I am not denying the greatness of either Flaubert or James. The novel was ceasing to be an aesthetic form and they recalled it to the artistic conscience. It was the later writers who by accepting the technical dogma blindly made the novel the dull devitalized form(form it retained) that it has become. The exclusion of the author can go too far. Even the author, poor devil, has a right to exist, and M. Mauriac reaffirms that right.


参照例文③
 Ce jour-la, j’ai vu pour la premiere fois a visage decouvert, mavieille ennemie la solitude, avec qui je fais bon ménage aujourd’hui. Nous nous connaissons : elle m’a assene tous le coups imaginables, et il n’y a plus de place ou frapper. Je ne crois avoir evite aucun de ses pieges. Maintenant elle a fini de me torturer. Nous tisonnons face a face, durant ces soirs d’hiver ou la chute d’une ‘pigne’, un sanglot de nocturne ont autant d’interet pour mon coeur qu’une voix humaine.


参照例文④
 Les etres ne changent pas, c’est la une verite dont on ne doute plus a mon age ; mais ils retournent souvent a l’inclination que durant une vie ils se sont epuises a combattre. Ce qui ne signifie point qu’ils finissent toujours par ceder au pire d’eux-memes : Dieu est la bonne tentation a laquelle beaucoup d’hommes succombent a la fin.
 Il y a des etres qui tendent leurs toiles et peuvent jeuner longtemps avant qu’aucune proie s’y laisse prendre : la patience du vice est infinite.
 Il ne faut pas essayer d’entrer dans la vie des etres malgre eux : retiens cette lecon, mon petit. Il ne faut pas pousser le porte de cette seconde ni de cette troisieme vie que Dieu seul connait. Il ne faut jamais tourner la tete vers la ville secrete, vers la cite maudite des autres, si on ne veut pas etre change en statue de sel...
 Notre-Seigneur exige que nous aimions nos ennemis ; c’est plus facile souvent que de ne pas hair ceux que aimons.