フランソワ・モーリアック論
第1章 「J・P・サルトルによる例題」
第2章 「グレアム・グリーンによる論評」
2000年8月15日論述
第1章 ジャン・ポール・サルトルによる例題、そして、フィクションの形式
オックスフォード大学の哲学の学究として出発し、やがて小説家に転じた一人の女性作家による「サルトル論」は多くの興味深い問題を提供している。アイリス・マードックは、このサルトル批判の主題を、対象を規定する用語として、そのままサブタイトルにした。「サルトル――ロマン的合理主義者(Sartre―Romantic Rationalist)」。
その論述はサルトルの全容についてのほぼ完ぺきで明解な提示と言えよう。しかし、このサブタイトルが示す内容には、僅かながら判然としない、未明の部分が残されている。
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| アイリス・マードック |
そこで、私ならこう規定する、という補正の意味で、次のようなサブタイトルを附してみる。「サルトル――操作的観念主義者(Sartre―manipulative Conceptualist)」。
だが、上の言語ゲームは、当然のように、本論の主題を示唆するものではない。ここでサルトル論やマードック論をする誌面の余ゆうはなく、あくまで、「サルトル的例題」への考察を基点に「フランソワ・モーリアック論」への道程を示す一つの座標として私は扱うのである。
例題の中心として、一九三九年にサルトルが発表した論文、やがて批評文集「シチュアシオン(Situation)」に収録された、「フランソワ・モーリアック氏と自由」を例示の対象にし、幾つかの問題点を摘出してみよう。
一つの仮定を提出する。
もし、読者が、この論文について少しの予備知識もなく、しかも最初に論文の末尾を読んだ場合……、という仮定。その末尾とは次のとおりである。
――モーリアック氏は自己中心の態度に徹した。彼は神の全知と全能を自らの立場として選んだ。だが、小説は一個の人間によって多くの人間のために書かれるものである。外観に突きあたり、その外観にとまらず、それを透視する神の眼から見れば、小説もないし芸術もない。芸術は外観を糧とするものだからである。神は芸術家ではない。故にモーリアック氏も芸術家ではない。
最後の二つのセンテンスは、この一文の性質が論文であるというよりは詩的批評であるとの印象を読者に与える。なぜなら、ここでの比喩の対象である神(キリスト教の神)が、論証の要件として扱われる性質のものでないことは万人が熟知しているからである。だが、読者が直面する奇妙な矛盾が持ち上がる。この二つのセンテンスに見られる断定のスタイルが詩的表現とは無縁であるばかりでなく、断定へ至る道筋が論証的性格を明白にしていることによる。そして、われわれの予備知識は、この一文に限らず、サルトルのすべての論述が「論証」を心がけた「論理を装った」文脈で貫かれていることを想起させる。
注意深い読者が必らず気づくはずの、サルトル的例題のすべてを被う「非論理性」が、この文章家の本質を形成する矛盾として、ここに附加されねばならないだろう。例えば「彼女は昨日海岸へ行かなかった」は、「彼女が昨日海岸へ行った」事実についての論議である。同様に、私が「サルトルの非論理――即ち、論理的過失」を論ずるのは、「サルトルにおける論理的文章構成」の事実を前提としている。したがって、詩的表現の創作に対して、その作品の価値如何を問わず、もし論理的判断を加えるとすれば、それは無意味な愚行と言うべきである。
そこで、先に引用例示したパラグラフを導く、サルトル的例題の主要な問題点から彼の論理をたどってみよう。
論文のタイトルとした「フランソワ・モーリアック氏と自由」における「自由」は、サルトルの一見多義的な論述にもかかわらず、一つのことに問題は限定されている。論旨を要約すれば、作家モーリアックがその作品「夜の終り」のヒロイン、テレーズ・デスケルーの自由を剥奪したとする批難である。では、登場人物における自由とは何か? この論文はもちろん、彼の数多い論述を参照しても、この主題の解明、あるいは解明のための例文さえ見当らない。彼は主題の範囲をより狭く、批判の対象だけにしぼって、――登場人物の行為に予定される、作者の予断的支配権、として取り上げる。
――すぐ前のところで《自分の運命のリズム》を口にしていたのが、ほかならぬテレーズではないか。自由はこのリズムの過程の一つである。テレーズはその自由においてさえ、先のわかった女なのである。モーリアック氏はテレーズに殆んど独立性を与えていないし、この僅かな独立性さえ、まるで医師の処方箋のように正確にその量を計って渡している。
サルトルに特有のポリティカル修辞法がここにはある。人間の傾向や性格など、本来計量し得ない事象についての計量的批判――、だが、読者は話法の一種として、それを容認する。その時、こうした論法の断定の強さだけが、ある真実味を帯びていく。
その上、「テレーズ・デスケルー」とそれに続く「夜の終り」の二つの小説のヒロインが、サルトルがその論旨を進める上で必要前提とする、単純な「霊肉葛藤の二者択一」的な状況にあるとは決して言えない。
テレーズ・デスケルー。聡明で、自己主張が強く、自らの存在意義にこだわる女。ボルドー地方の沈滞した雰囲気に己れの生息を見出せない進取の気質。だが、結婚という形態によって、彼女がいつか激しく反撥する環境に身を置くには、広大な松林の所有者の妻となる虚栄心と、遅まきながら眼覚めた性欲で充分だった。気だるいブルジョワ社会を嫌悪するブルジョワ女性。やがて、彼女は夫に対する毒殺未遂犯となる。
相異なり、対立する二つの志向に引き裂かれた一つの魂。読者がそう読むことは妥当である。だが、混沌は、複雑な絡みあいの中から相貌を現し、やがて、ある美学的秩序の中に見事な構成を示していく……。これがモーリアック文学の一つの特質であろう。そして、この秩序は、プロットとして語られることを不可能とする。それはキャラクター(登場人物)の探索と、一つの雰囲気――普遍的で、独自な雰囲気――との融合から成り立つ。
サルトルの論理的修辞、著しい錯誤を含む前提から出発する論述に対して、私は猶予を与えることは可能だろう。彼が好む論証的推論に対してではあるが、ともかくも、この論文は、数学や論理学についての論文ではないからだ。しかし、この猶予の提供にもかかわらず、根本的な疑問は依然として残されるのである。いったい、登場人物における自由とは何なのか?
解答は一つしかない。「自由」の語用がヴェールの役割を果しているものの、透視された実体は、ヒロインの結末への興味を昂めていく不可視空間の設定をよしとする、あの伝統的筋書の一つにほかならない。言いかたをかえれば、ある形式が読者に強いる「未開領域」の持続への偏重である。
才智に恵まれた、やはりフランスの知を担う一人には違いないこの文章家は、しかし、この錆ついた文学論を明示するほどナイーブではない。そこで彼は、登場人物における視点の問題として、文学論を展開する。
――はじめは作中人物と一体となり、次には突然これをやめて、裁判官のように外部から考察するこの手法は、モーリアック氏の芸術の特徴なのである。
――まだテレ―ズの心のなかにいるつもりが、数ページも過ぎれば、われわれは早くもテレーズから離れてしまい、モーリアック氏とともに外からテレーズの顔を眺めている。それはモーリアック氏が≪第三人称≫のもつ小説のあいまいさを利用しているからである。
サルトルによれば、小説家が≪第三人称≫の表現形式を利用するのは、読者に共犯関係を強制しないためであり、≪私≫という幻惑的な親近感にニスをぬるためのものである、という。
サルトル的修辞法の混乱がここにもある。それは主に二つの点に発している。前記の「作中人物における作者からの自由」の問題と同様に、この「視点の純正保持」も厳密な意味では存在せず、その限りにおいて、サルトルが自らの特質として顕示する哲学的、論理学的考察は、初歩の段階で誤謬が予定されてしまっていることになる。そのとき、彼は、論理的推論が読者に与えるだろう「ひびきの強さ」を残しつつ、文学が必ずしも論理になじむものではないとする「常識」を利用する。つまり、私は論理的分析をしているのではない、文学状況(シチュアシオン)を語っているのだ――、という欺瞞の表示である。
彼の文学論的体裁に論理的外装がつきまとうのはそのためである。例えば先記の≪三人称形式≫の意味に関する理論も、理論武装の要請に基く所論であり、普遍的真実を備えているものではない。
そこから「サルトル的修辞法」における二つめの混乱が現出する。右記の≪三人称形式≫についての所論が、サルトルにおける文学主張か、あるいは一般的なのかは常に判然としない。だが、彼は、必らずといっていい程、「本来、文学とは……」式の、伝統と一般性から論旨を始める。「モーリアック批判」の幾つかの要点についてもそれは言える。しかし、「視点の純正」にしても「作中人物の自由」についても、あるいは後述する「文体論」についても、無数の資料と文学史が、サルトルの主張が決して伝統に基くものではなく、また一般論を形成していないことを証明する。そのとき、彼は次のような言辞をそっと附け加える。
――もっとも、わが国の作家の多くもそうではあるが。
それに続く文章が、――モーリアック氏は自己中心の態度に徹した。……。の、本稿で最初に例示したパラグラフなのである。
では、伝統と一般性を否定する、サルトル独自の文学的思想なのか?勿論、そうではない。そうではないことは既にサルトル自身の言表に示されているし、また、それでは「モーリアック批判」の意味は消失する。しかも、サルトルは、こうした文学理論的外装が、真の理論を形成するほどの主題と構成に欠けていることを熟知しているが故に、誰が読んでもその種の論文とは違うことがわかる論述をしている。その違いは、例えば、ポール・ヴァレリーの幾つかの論述、フランソワ・モーリアックの「小説論」等、またナタリー・サロートの「不信の時代」やアラン・ロブグリエの「新しい小説のために」、そしてフィリップ・ソレルスの「フィクションの論理」などを読めば一目瞭然であろう。
矛盾の補正作業が新たな矛盾を生む連環の中で、サルトルは、アイリス・マードックが評価すべき特質としてあげる「政治的アジテーター」の本領を発揮する。即ち――、たとえば「AはBを人一倍愛し、そのためBを誰よりも憎んだ」という言表が、Aの中の矛盾を説明する「矛盾のない表現」であることに敏感なサルトル、……したがって「AはBを愛している」あるいは反対に「AはBを憎んでいる」も真な命題であるが、「AとはBを愛する人間である」あるいは反対に「AとはBを憎む人間である」の全称的判断においてはじめて錯誤を形成することに敏感なサルトルは、矛盾と、その修正がもたらす新たな矛盾を、切り離した位置に布石する。布石の意義は、部分的批判に対する一種のアリバイとしての役割にある。
その上で、彼は、外国作家の作品から具体的ではあるが部分的な例示をする。例えば、より伝統的なスタイルを堅持するジョゼフ・コンラッド、あるいは斬新な文体がフランスの新しい小説家達に与えた影響は大きいが、前衛的試みとしては、モーリアックに比べて皆無に近いアーネスト・ヘミングウェイ等である。しかし、その部分を離れれば、サルトルがする批判は、これらの作家に対していっそう適合していくという、また新たな矛盾を生み出す始末である。
モーリアックの文学に親しんだ人達が、この私の「サルトル批判」に、ある苛立ちを覚えているだろうことを私は感じている。サルトルが主張する「視点の純正」について、作中人物の視点を貫くか、あるいは≪三人称≫形式の厳密さを守るかで考えた場合、サルトルが主として論ずる三人称形式が結局は「まやかし」であることを、新しい世代の作家達は、その理論と実作の業績とおして示している。例えばフィリップ・ソレルスは「小説を書く行為の小説」とも言うべき「ドラマ」によって、またアラン・ロブグリエの「覗く人」等、≪一人称≫形式の極限への試みにそれはうかがえる。
サルトルは「視点の純正」の欠如をモーリアック作品の全てに共通する特徴だという。そして読者たちは、この「夜の終り」(一九三五年)より以前の作品のなかに、例えば代表作の一つ「蝮のからみあい」(一九三二年)のような、≪一人称≫形式による視点の統一を主人公の視点だけに限った作品があることを知っている。
ところで、幾つかの要点を摘出し、その論理的誤謬を私が指摘してきた、このサルトルの論述について、その矛盾には論者と同様に私も眼をつぶり、一つの文学論として考える執行猶予を与えたとする。それはサルトルにとって、おそらく迷惑に違いない猶予ではあろうが……。そのとき、文学主張としては僅かな斬新性もみられず、主張としては余りに動脈硬化的な固定性を示しつつ、しかし例示の量に比べて明解さに欠けるこの文学論に、われわれは美学につながる要素を少しでも見出すことができるだろうか?
否、であることは、そもそも論旨の矛盾が証明しているが、こうしたすべては小説美学に関わる問題ではないことだけは明らかである。サルトルの批判が回避される形式にのっとって誰かが小説を創った場合、それは単に一つのスタイルの呈示にすぎない。私は仮定に対する推論として述べたが、誤ってはならないことは決して仮定ではない事実であるということである。サルトル的矛盾の殆んどが、論点の発進地を一般性におき、その一般性が評価の基準であるとする論証にすすむからである。美学上の問題提起は、この段階で放棄されている。
ところで、上記の一般性さえが錯誤とされるとき、われわれは一人の文章家におけるこの特質をどのように理解すればよいだろうか?
アイリス・マードックは、ロマン(小説創造)的合理主義者として、彼を理解する。彼の創造行為にみられる矛盾を、彼の実存主義とは正反対の彼の思考性のなかに求める。――実存よりは本質への関心の強さを示す、とマードックは、はっきり断定する。
しかし、マードックの論点はその明解さにもかかわらず、実証的に過ぎるため、直観がもたらす解明への認識を欠いている。例えばサルトルの有名な小品「実存主義はヒューマニズムである」について、果して実証的分析は可能だろうか?この小品についての詳述は別の機会にゆずるが、この実存が本質に先行することの明証も、また何故それが比重を持つのかについて、常に不明のままである。
空疎な観念の構築は、その操作によって影響力を強くする。私がサルトルを「操作的観念主義者」と名付ける内容は、マードックが「政治的アジテーター」と評する内容と大きく重なる。
モーリアックの次の言葉は示俊に富んでいる。その代表作の一つ「パリサイ女」(一九四一年)について、――サルトル氏のおかげで、この小説は生れた、とモーリアックは語った。
その時代精神の影響もあって、技法として語られることを好まないモーリアックが、実は多彩な技巧家であることは見落されがちである。モーリアックにおける文体論的試みは後述するが、彼は、サルトルが求める形式を十全に充たす小説を書いたのである。それは最も伝統的な語り口、つまり主人公について語る脇役の個性的な設定にほかならない。そして、この作品が彼の代表作と言われるのは、その伝統的な語り口によるのではなく、あくまでモーリアック的世界の拡がりと深化についての評価によることは銘記されねばならないだろう。
サルトルにおける世界的名声が、その発言や論述に対して無条件の評価に結びつくのは、残念ながら日本だけに限られた事情である。
私は、一時期の日本の流行現象を誘発したサルトルの「視点」問題、今となっては、取るに足らない提起について、二つの意味から書こうとした。一つは権威主義への批判であり、もう一つは、サルトルによる例題が、モーリアック文学を眺める上でよりよい視点を提供すると思うからである。その上で、グレアム・グリーンの「モーリアック論」を併用しつつ、次号にそれを論述したい。
第2章 グレアム・グリーンによる論評、そして小説の文体
グレアム・グリーンは、イギリスの読者に伝える最優先の要件として、モーリアック氏が「偉大な伝統継承の作家たち」の系譜に属することを述べている。
――彼は次のような作家と言える。つまり、彼にとって眼に見える世界は常に存在し続ける、そして、彼の作中人物たちは、その魂が救われるにせよ失われるにせよ、魂を持った人間としての実体と重要性を兼ね備えた人間である、という種類の作家……。
上記の文は、彼の批評文集「The Lost Childhood and Other Essays」に収録された「フランソワ・モーリアック」のなかの一節である。
この一冊は、G・グリーンが「ザ・スペクテーター」「タイム・アンド・タイド」「フランス・リブル」等の定期刊行誌紙に寄稿した批評・エッセーから成るが、四部構成の中の第二部「作家論」の一つである。ヘンリー・ジェームズやチャールズ・ディケンズ、あるいはヴァージニア・ウルフ等、イギリス作家達についての論評の中で異色とも言える唯一の外国作家論である。
例示に明らかなように、グリーンは「偉大な伝統継承者」の条件を、the visible world (眼に見える世界)と the solidity and importance of men with souls (魂を持った人間の実体と重要性)に対する認識と表現に求める。
上の二つの条件に見られる喪失状況を、この「モーリアック論」でグレアム・グリーンは、――ヘンリー・ジェームズの死以降、一つの災厄がイギリスを襲うことになった、という書き出しで提示する。
――なぜならば、ジェームズの死とともに、イギリス小説から宗教的意識が失われてしまったからであり、この宗教的意識とともに、人間の行為の重要性への意識が消滅してしまったからである。これは、いわば、フィクションの世界が一つの次元を失ったに等しい。
(原文参照①)
その結果、グリーンによれば、例えばヴァージニア・ウルフやE・M・フォスターのような著名な作家の描く人物さえが、軽薄な世界をさまようボール紙製のシンボルにすぎなくなったという。
もう一つの(偉大な伝統継承者の条件)の欠如の例示として、グリーンはV・ウルフの「ダロウェイ夫人」をとりあげる。たとえばリージェント街を歩くダロウェイ夫人によって、読者はその街の光景を伝えられる。だが、その情報は、確固として存在するリージェント街ではなく、あくまで作中人物ダロウェイ夫人の純正な視点が作り出す一つの感傷風景にすぎない。それに対して、例えばチャールズ・ディケンズの不滅の作中人物達と、彼等が棲息する住居等と、いずれもそれ自体の存在の重要性によって成立する。そして、当然のように、この世界は、作者の視点によって歪められる部分のあることは否めないだろう。だが、作中人物によって二重の距離から歪められることはないのである。
G・グリーンは、イギリス小説におけるこうした流行現象に対して「教条主義的“純粋”小説」(the dogmatically‘pure’novel)の語を適用する。そして、この潮流の創始者がギュスターブ・フロベールであり、それはイギリスにおいてはヘンリー・ジェームズによって大きな成果をもたらされた、とする。だが、この「純粋小説」における倫理的判断や超自然的行為への狭路は、ちょうど、あの「子供達の迷路パズル」の「逆」であり、到達地点から出発し、外部へ向うため、今度は入口を到達地点としているにすぎない。
こうした状況について、グレアム・グリーンは次のような明解な判断を持つ。
――私はフロベールやジェームズの偉大さを否定しているのではない。小説は今や美学的構成への志向を失ってしまった。そして、この二人は、そうした小説に芸術的良心を思い起こさせたのである。
責任のすべては後継者たちにある、とグリーンは言う。
――盲目的に受け継いだ技法上のドグマによって、小説を、感性に乏しく生命力の無い形式(習慣的に維持されるだけの形式)にしてしまったのは、あとに続く作家達なのだ。ここでは作者の排除はより徹底されることになる。だが、作者の方にも、気の毒なことに、存在する権利はある。そして、モーリアック氏はこの権利を再確認する。
(原文参照②)
私は、前号(七月号)で、ジャン・ポール・サルトルの「モーリアック論」から、≪作中人物における作者からの自由≫と、それに伴って展開された≪視点の純正≫の問題をとりあげ、その上で、小説美学の見地からフィクションの形式に関するテーマを提示した。当然、この論述の多くはサルトル批判である。そこで前号で記したサルトル批判の概略を述べるにあたって、私がかつてある誌に載せた私自身の論述からの引用を適切と考えた。
「十分に充当されない説明の因は、殆んどが論理的過失に基いている。
それを、文学論と称する論理を超えた部分の現存が生む必然と見せつつ、一
方で、彼が得意とする外皮的論理構築、そのため外見上の整式だけで成り立
つ推論式が、しかし、読者に与えるであろう影響の強さも、また利用するこ
とを忘れない。
たしかに、作中人物テレーズ・デスケルーの視点や行為に、作者モーリ
アックの観点が入っていることは事実である。だが、この場合、問題は、作
中人物が作者に対して完全な自由を獲得するということは、いかなる具体的
表現をとおして可能なのか、なのである。作中人物の視点の純正についても
同様である。
サルトルにおけるこのドグマ、あるいは観念、そこに具体的な内容を探
ねても誰も見出すことはできない。彼のあらゆる著作物を参照しても、僅か
な解答も存在しない。
そのとき、彼の空疎な文学論よりも、彼の≪真正な意味で哲学的とは言
えない哲学的思考≫と≪論理的過失から始まる論理形式的判断≫が浮かび上
がるのである」
上の論理的過失については前号で述べたが、その推論は伝統的形式論理学が分類する殆んどすべての誤謬を含んでいる。読者の誰もが判別できる誤謬としては、三段論法を応用した演繹推理で、常に大前提が不確定要素の上に成立していることと、同時に大前提が別のところで論者自身によってくつがえされている矛盾であろう。
一方、サルトルにおける哲学的脱落は次のとおりである。
「存在」「認識」等について、既に十九世紀に始まる現代哲学は、伝統的哲学に厳しい反証を突きつけてきた。二十世紀の人・サルトルは、先の主題についての現代哲学の言語分析方法を、「作中人物の自由や視点」に利用しようとする。だが例えば、「論理実証主義」の極端な客観性と反形而上性に対応する性格を彼は持っていない。一方、言語分析哲学に求められる精密な言語思考(例えば、日常言語派における語用論や形而上性の容認も、結局は精密な言語活動に基いている。)は、ドグマティクな彼の傾向と相容れることはない。
それは、ちょうど、彼の実存主義が、伝統的な実存哲学の系譜と無関係である事実と相似する。(無関係という語は、当然ながらアンチテーゼの立場にも入らないことを意味する)。
私はかつて、サルトルのために一つの造語を考えたことがある。それはCounter Studying(対敵学習活動)という語である。Counter Espionage(対敵諜報活動)と同様に、彼の生存(サルトルにおける存在理由)を脅かす敵(状況、理論)の現前によって喚起される情熱である。そして、彼の主たる敵として、フランスにおけるキリスト教の現前があげられるだろう。
だが、ドグマティストは必然的に「前衛」を拒否する。それは教条主義と権威主義の親近性を考えれば一目瞭然である。ここから、サルトルにおける奇妙な矛盾が量出されるのである。現代哲学の匂いを添えつつ、哲学的欠落を生じさせる所似である。
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| グレアム・グリーン |
グレアム・グリーンの「モーリアック論」が、サルトルへの反論をモティーフとしていないことは明らかである。美学上のテーマとしては、イギリスにおける「純粋小説」に対するアンチテーゼの形をとる。だが、その内容は、当然のようにサルトルへの反論を含んでいる。それは反論というよりは、イギリス純粋小説への批判が、サルトル論述を無意味なものと斥けている帰結を読者が認知する、と言うべきかもしれない。サルトルの観念的言表に比べて、グリーンの具体的記述には哲学的論述は排除されている。それでも、作中人物の視点にこだわる純粋小説家が、作者の観点を固持する伝統継承者に比べて、彼らこそ二重の距離からの歪曲を生みだしている、という見解は、哲学的な正当性を伝えてくる。
作中人物の自由、あるいは視点の純正についての観念主義者の所論は、芸術作品が人為によるイリュージォンの容認の上に形成されるという哲学的真実(科学的事実)への拒否から生れる。それを現実認識であると錯覚する巨大なイリュージォンは、美術におけるコンセプチュアリストと全く等質である。両者における別の類似性も、観念操作者の特質を示す。即ち、最も非哲学的で、曖昧で、何の実体も指示し得ない言表にもかかわらず、それを哲学的であると錯覚する共通性である。
作中人物の「完全な自由」そして「純正な視点」とは、結局のところ、人物達の型(パターン)を決定することで成立する。とすれば、作者の観点を排除する純粋小説が、自由の消失度が強いという背理を導く。そして、主観が公正な伝達を完うできない常識は、創造された作中人物に加わる作者の観点と、型にはめこまれた人物達の観点との、二重の歪曲が純粋小説の宿命であることを明示せずにはおかない。ここにいたって、アイリス・マードックが断定する「彼の主義とは反対に、実存よりも本質に強い関心を示す」サルトルの自己矛盾が露呈されることになる。
フランソワ・モーリアックの代表作の一つ「パリサイ女」について、グレアム・グリーンは興味深い文学論を展開している。その例示をグリーンはフランス語の原文のまま提示する。
――あの日、かつてはぼくの敵だった孤独が、仮面を取り去って現れたのを初めて見た。だが、今は、ぼくは孤独と結ばれた間柄になっている。ぼく達は互いに知り合いなのだ。孤独は想像できる限りの打撃をぼくに与え、もはや打つべき場所がぼくの中にはなくなっていた。ぼくはその罠を一つでも避けたいとは思わない。今では、孤独はぼくを苦しめることをやめてしまった。この冬の幾日かの夜を、ぼく達は向かい合いながら暖炉の火を掻き立てている。こうした夜は、松かさが落ちる音も、夜のすすり泣きも、人間の声を聞くのと同じ興味をぼくの心によび起す。
(原文参照③)
G・グリーンは、この小説がフロベール的形式の痕跡を残していると指摘する。語り手の少年「ぼく」は事件の展開で一役を担い、どの言表も、純粋主義者たちには、フィクション上の「ぼく」の属性であると考えられるだろう。しかし……、グリーンは、この属性を錯覚させるフィクション上の外観は薄地仕立てであり、その「ぼく」を支配する作者の「ぼく」を強調する。
モーリアック自身が、サルトル氏のおかげでこの小説は生れた、と語った事件を思うとき、皮肉なひびきを持つグリーンのこの言説は、サルトルの文学観への鋭い批判であるばかりでなく、普遍的とも言える文学論の主要件を次に予定することになる。
モーリアックの作品について、プロットの詳細な分析は殆んど意味を持たないだろう。読者は、彼の作品の事件の経緯を、半年も過ぎれば忘れてしまうに違いない。事件の複雑さは、この特徴をいっそうきわだたせる。そのとき、読者の記憶に鮮明なのは、作中人物だけとなる。
例示したモーリアック文学の特質とも言えるパラグラフは、……グレアム・グリーンは次のように述べる、――シェイクスピア劇におけるような突然の緊迫感を読者に与えずにはおかない。静寂が精神を被うかのようであり、この重要性はリア王や将軍オセロそのものをはるかに凌駕する。それはプロットが左右する事柄ではない。
そして、グリーンは、モーリアックの芸術における「美学に叶う要因」として、フィクションの「ぼく」が語るのをやめ、作者の「ぼく」が語ることを最優先させる。したがって、純粋小説――即ち、作中人物の視点に偏る、二重の歪曲を生む作品――には絶対に見出せない、生きた人間の実体と、魂の現実が表現されることになる。
存在について、J・P・サルトルとは異り、G・グリーンは哲学的に妥当な認識と分析を提示する。フィクションの形式として考えた場合、作中人物の行動は、事件が事物の核心を変化させるのではなく現出させるように、ある筋道の役割を果すのにとどまる。プロットの巧拙は取るに足らない要件であり、また人間が救われるのも破滅するのも、それは行動によるものではなく思想によるのである。
私はジャン・ポール・サルトルの「モーリアック批判」に対して、彼が論旨の外装として施す文学論を、操作的観念主義者の技に過ぎないとし、彼が得意とする哲学的言説の非哲学性と、そしてまた、論理的構築の非論理性を、具体的例示のもとに述べてきた。フランソワ・モーリアックの秀れた芸術についての、幾何学的証明の一方法である。
グレアム・グリーンは、美学的構成を失っていったイギリス小説への批判を、モーリアック文学の秀れた特質の提示をとおして論述する。それはグリーンの文学観であり、その文学観は主として「構成(Form)要件に基く美学」論としての意味を持つ。
そして、また、私は、グリーンの美学論のなかに、私が追及する文体論(Stylistics)との重なりを見出す。
「文体論(Stylistics)」に関する論考を私は別の機会に予定しているが、一般的言語活動における「ゼロ度(degree zero)」の基本概念は、あらゆるヴァリエーションの考察に有効な基準を与えてくれるだろう。それは最も簡潔で、破格的要素の皆無な言語表現の地点の設定である。多様な展開は常に予定されるが、修辞学における伝統的な原理は、文体論的検討の一つの参考になるだろう。
たとえば――
「附加(additon)」 a+b+c→a+b+c+d
「省略(detraction)」 a+b+c→a+b
「倒置(permutation)」 a+b+c→a+c+b
「代替(substitution)」 a+b+c→a+B+c
は、古典的修辞学におけるOrnaments(彩り、飾り)の基本的態様を示す。
実際的な対象として「個有の言語」論、「作品」論、等を考えるとき、言語行為の幾何級数的拡大作用の中で心すべき点は、評価以前の量的条件と質的外延性の存否、そして破格要素について、それをVitium(汚染・無効)とみるか、あるいはVirtus(効力・価値)とみるかの、検出に伴う価値判断が要求されるということである。
例えば、日本語論、フランス語論の対象性を、すべての方言や俗語に適用することは誤りであろう。モーツァルトやビートルズの音楽に文体論的考察の対象性を認めても、亜流達にそれを見出すことはできない。だが、例えば、通常は唯一の作品の作家について成立しない文体論的考察を、エミリ・ブロンテのような作家について試みることは、その価値判断の優先から、例外的に可能となると私は考える。
ハーバート・リードの「散文論」、あるいは、ソシュールの弟子シャルル・バイイの「フランス語の文体論」にみられる曖昧さは、明確な境界線の設定から拡げられる応用性という、今日的状況を準備できない先導者的役割に伴なう要件と言えるかもしれない。
そこで、フランソワ・モーリアックを、フランス文学の伝統継承者として考えるとき、心理小説の系譜にあてはめる批評家たちの安易さは否定されなければならない。文体論的考察において、こうした系譜の個有名の抽出作業が副次的であるばかりでなく、「心理小説」の語がそもそも集合の名称として働く作用域の不確定性が指摘できよう。だが、私のこの指摘は、20世紀後半の今日的状況によって初めて可能となることかもしれない。
私は、この個有名の抽出について、その語用としての一つの想定を考えてみる。例えばオノレ・ド・バルザックとの対比による対置性。そして、私は対置の図式を作り出す対比条件の適性に疑念を抱くのである。たしかに、こうした誘惑は、しばしば読者にとって魅力的である。例えばヌーヴォー・ロマンの作家たちを、縦の系列に寸断してみる想定は、私にとって大きな魅力であったことは否定できない。アラン・ロブグリエをバルザックの延長線上に、そしてナタリー・サロートをマルセル・プルーストの延長線上に……。
しかし、いわゆる心理描写なるものを排除したアーネスト・ヘミングウェイの読者達は、作中人物の心理について常に盲目者の立場を強いられているだろうか?こうした疑問を今日的文学状況の中で際立たせる例がマルグリット・デュラスの世界である。シナリオに近い形式、ヘミングウェイの影響と言える心理的描写を拒否した短文の積み重ねと、今度は彼女の特質とも言えるセンテンスの間の空白。だが、読者の記憶に場を占めるものは、作中人物達の心の動きである。
総称について、言語における意味論的考察が愚行であることは誰もが知っている。しかし、内包的共通項を総称とするとき、それは個有のニュアンスを失う。例えば「人間の小説」という奇妙な語を考えれば理解できるだろう。それを転化させた別の用語「人間喜劇」「人間の悲劇」において「人間」は接頭辞的な添えものにすぎなくなっている。
半面、例えば「主題の小説」という名称を作ったとき、この形容詞は、本来の意味から離れたニュアンスを想像させる。そして、「心理小説」はまさに後者のケースの一例となる。そのとき、私は、形容詞の転換された語用を考えるより先に、このジャンルにあてはまるべき具体例を考えるだろう。そして見つけ出した作品は、文体論的考察の対象とはなり得ない三流小説であることに気づく。
例えば、レイモン・ラディゲ、あるいはフランソワーズ・サガン、等である。両者の共通性は「心理的遊戯」であり、「風俗小説」的読物であろう。
だが、例示の二人は、それぞれ大きく異なる。F・サガンの「ファッショナブル・セックス」描写に対して、R・ラディゲの観念操作性である。ラディゲにみられるアウトサイダー的特性は、フランスの偉大な伝統の傍にしばしば散見する一つの流れを感じさせずにはおかない。観念のすべてをフィクション構成にするラディゲに対して、論理的構築にするサルトル、という対比さえも可能となる。
ラディゲの、美学的特質を見出せない作品は、一方で、バルザックの後継者を思わせている。バルザックの鋳型製造は既に著名であろう。「憎悪」「出世」「吝しょく」等の情熱の「型」の見事な成果は、しかし、サルトルが主張する「作者の視点が排除された」典型例であり、ここには「サルトル的自由」が決して自由ではない一つの例証が存在する。そしてラディゲの場合、「型」はコミュニケーションの錯綜の抽象化として製造される。この完全な「作中人物における主体的な展開」は、むしろ「作中人物が反応実験工場から送り出されるロボット」であることの明示につながる。そして、具体的記述における「型の抽象化」において、この「心理小説」が、そもそも対置を想定したバルザックの系譜に入るというパラドックスがもたらされることになるのである。
一九二〇年代から三〇年代にかけて、袋小路の中に窒息しそうだった小説の世界に、一つの夜明けが訪れる。警鐘は殆んど同時だった。やがて文学史に比類ない軌跡を残すことになる新しい世代の台頭である。
生気を失った人物達に生命力が吹きこまれる。例えばペシミズムにおいても、生きた人間の悲惨が提示されることである。アンドレ・マルローやアントワーヌ・サンテグジュペリに代表される「問いかけの文学」も一つのエポックを形成する。
だが、人間の実存への深い問いかけは、「前衛的」な三人の作家によって深化をみる。
(私は≪前衛≫という戦争用語を、その象徴的な意味で用いる一般的用語に従う。つまり、その語が造られた時代の芸術家達を指示する総称としてではない。したがって、もし簡単な定義を与えるとすれば、伝統継承において、いつか人々が習慣的に最優先事項と一致して考える固定観念からの脱皮を前提とする。そして、これに附加すべきもう一つの要件は美学的評価を伴なうことである。)
……フランソワ・モーリアック「テレーズ・デスケルー」(一九二六年)、ジョルジュ・ベルナノス「悪魔の陽の下に」(一九二七年)、ジュリアン・グリーン「アドリエンヌ・ムジュラ」(一九二七年)。先輩格のモーリアックは既に文壇に名を成していたが、ある前衛性の同時的出現において時期的意義が確かめられる。
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| フランソワ・モーリアック |
批評家ルネ・マリル・アルベレスは、この三人による新しい小説の美学的特質を「ドストエフスキーの導入」として価値づけている。それは、それまで秀れたカトリック文学者の存在を必ずしも否定するものではない。だが、ポール・クローデルの詩劇、シャルル・ペギーの思想、ジャック・リヴィエールとシャルル・デュボスの批評というように、フランス小説の伝統的系譜に名をとどめる作家はアンリ・ゲオン一人であり、特異な作家としては改宗者のジョリ・カルル・ユイスマンスの神秘主義があるだけだった。
真にカトリック的な小説、護教文学ではなく、また伝統的であるが固定的な「心理」から脱却すべき小説は、先記のR・M・アルベレスが「ドストエフスキーの導入」とよぶ、人間の混沌とした現実認識を不可欠の要件とする。その混沌は、人間のあらゆる行動に新たな意味を見出すことであり、それはまた超自然的企図の認識からもたらされる。そして、この混沌はフランス文学の正統的特質――秩序と整合性――の中でどのように構成されるのだろうか。
まず、ジョルジュ・ベルナノスの暗く寒い世界が、モーリアックの灼熱のランド地方と対照的であることを私は考える。ここでは悪魔がすべてを支配し、恩寵の微かな触手、その僅かばかりの希望さえ、あの「田舎司祭」の眼には消えかかる灯火のようである。
ジュリアン・グリーンはその生国からの継承を隠さない。エドガー・アラン・ポーにおける「人間の情念と幻想の結合」、そしてナサニエル・ホーソンの閉ざされた世界。そのピューリタン的名残りが、フランス文学の土壌で、苛酷な運命を背負う主人公の破格な生に宗教的主題による統一を与える。
頑くなに固持する伝統的な語り口。それは誰にも明らかな二人の作家の共通性である。だが、混沌への現実認識と整合性は、二人の場合、フランス文学の先験性と二人における宗教的認識の素朴で大胆な結合から生成されたと言えよう。
フランソワ・モーリアックは、上の二人に比べた場合、ドストエフスキー的現実とフランス的整合性の課題に並々ならぬ技法上の成果を示している。彼の作中人物達、例えばテレ―ズ・デスケルーにしても、マリア・クロース(「愛の終り」)にしても、閉ざされた環境に息をひそめる姿は、ベルナノスやグリーンの世界と共通する。だが、幻想性を嫌うモーリアックは異様な設定を徹底して避ける。素材は常に地方人種、その地方は因襲が支配する。概して通俗的といえる外見性に、霊性のドラマを内在させる。恩寵は常に豊富である。ここでは、人物達は、ベルナノスやグリーンの世界におけるのと違って、自からの意思による選択可能な世界に住んでいる。人物達は、しばしば恣意的に恩寵を斥ける。それはまるで、理由のない自縛のように、自らに抗せぬ魂のありかたとして目にとまる。モーリアックがしばしばジャンセニストと誤解される原因は、こうした作中人物にみられるジャンセニズムの逆説的提示にあるのかもしれない。モーリアックはパスカルとラシーヌの愛読者だった。
多彩な技法の成果を、この作家は、……作者の本能が導く結果、と語ったことがある。だが、それは、私にとっては同じことである。例えば、文法上の分析は、フランス語動詞の「直接法現在形」の多用を伝える。後年のヌーヴォー・ロマン作家達の試みに、私は評価を与える一人だが、その試みには文学理論の実践という性格が濃厚である。しかし、モーリアックにおける文体上の試みは、もし「試み」の語が主題の意図を内在させる言葉だとすれば、この語の適用がためらわれるほどの必然性に充ちている。
それは、例えばこの現代作家の独特の文体に接した読者が必ず肯定する特質だと言えよう。静的な画面、突如として熱を帯びていく、きしむような語の配列。短文が重ねられる。息苦しさも、平静も、それはランド地方、大西洋にまで拡がるブドウ畑と松林に被われたボルドーの生息でもある。焼けつく陽ざしも、風にきしむ枝の音も、地方の自然と人間の、外見的静態にひそむ葛藤の表出に違いない。
モーリアックにおける前衛性の成果は、文体論的考察に適合評価される美学的特質を抱含する。その一つとして、再び文法上の新境地に触れるとすれば、例えば代表作の一つ「蝮のからみあい」における「過去への遡及」の多彩な活用にそれはうかがえるだろう。
ローレンス・ダレルやジェームズ・ジョイス、そしてマルセル・プルースト達が形成していった「意識の流れ」は、やはり文学理論としての意味あいが強い。
「蝮のからみあい」は、その意味で、これ以上技巧的で現代的な小説は他にない、と言える秀作である。この作品は、例の「ドストエフスキー的混沌」とフランス的整合の見事な成果を、無駄のない、細密な網目を織りなすような文体で示してくれる。先記の文法的新境地さえが、適所に投入された適材の効用をになっている。
主人公の告白から成るこの小説は、あの独特の息苦しい雰囲気に包まれている。貪欲で、憎悪を生き甲斐とする老人の、しかし冷徹な知性は、それが悪意に充ちた観察であればあるほど、読者は(少なくとも私は)、この主人公の内奥にひそむ魂の叫びを知る。
過去を語る場面に挿入される現在の観点。やがて変化の兆しがうかがえる現在の状況は、しかし、過去の中の内在でもある。時間とのたわむれは、必ずしも老人の特性ではない。ここでは、それは知性の発露を意味する。モーリアックは動詞の「半過去形」を十分に利用し、次いで過去形、現在形、更に前過去形を巧みに交錯させ、その形において初めて現出する状況という必然性を呈示した。
グレアム・グリーンは「モーリアック論」の結びに際して、モーリアック作品の考察に不可欠な人物としてパスカルの存在を強調する。
――自らが語る自由を自身に容認するこの現代小説家は、作中人物をとおして、また作者自身の「ぼく」によって、まさにパスカルの口調でくり返し語るのである。
そして、パスカルが小説家になっていたら、きっと採用したに違いないとするモーリアックの語り口(文章)を、「パリサイ女」の中からグリーンは抜粋する。
その幾つかを例示して結びとする。
――人間は変らない。これは今の私ほどの年齢になれば疑えない真実となる。しかし、人間は生涯力の限り反抗したある性向に戻ってしまうことが、しばしばある。このことは、人間が結局は自身の最悪なものに屈服してしまうことを意味しない。神は、そうした人間が最後に屈するための良き誘惑なのである。(原文参照③)
――人々の意志に反してその人達の生活に入りこむことはよくない。この戒めを忘れたりしないように。神のみが知る第二、第三の生活の門を押し開くものではない。もし塩の像に変えられたくないならば、他人の秘密の呪われた場所を振り返って見てはいけない。
――わが主は敵を愛さなければいけないと言われた。それは、愛している人々を憎まないことより、ずっと易しい場合が多いのである。(原文参照④)
参照文例①
For with the death of James the religious sense was lost to the English novel, and with the religious sense went the sense of the importance of the human act. It was as if the world of fiction had lost a dimension:
参照文例②
I am not denying the greatness of either Flaubert or James. The novel was ceasing to be an aesthetic form and they recalled it to the artistic conscience. It was the later writers who by accepting the technical dogma blindly made the novel the dull devitalized form(form it retained) that it has become. The exclusion of the author can go too far. Even the author, poor devil, has a right to exist, and M. Mauriac reaffirms that right.
参照例文③
Ce jour-la, j’ai vu pour la premiere fois a visage decouvert, mavieille ennemie la solitude, avec qui je fais bon ménage aujourd’hui. Nous nous connaissons : elle m’a assene tous le coups imaginables, et il n’y a plus de place ou frapper. Je ne crois avoir evite aucun de ses pieges. Maintenant elle a fini de me torturer. Nous tisonnons face a face, durant ces soirs d’hiver ou la chute d’une ‘pigne’, un sanglot de nocturne ont autant d’interet pour mon coeur qu’une voix humaine.
参照例文④
Les etres ne changent pas, c’est la une verite dont on ne doute plus a mon age ; mais ils retournent souvent a l’inclination que durant une vie ils se sont epuises a combattre. Ce qui ne signifie point qu’ils finissent toujours par ceder au pire d’eux-memes : Dieu est la bonne tentation a laquelle beaucoup d’hommes succombent a la fin.
Il y a des etres qui tendent leurs toiles et peuvent jeuner longtemps avant qu’aucune proie s’y laisse prendre : la patience du vice est infinite.
Il ne faut pas essayer d’entrer dans la vie des etres malgre eux : retiens cette lecon, mon petit. Il ne faut pas pousser le porte de cette seconde ni de cette troisieme vie que Dieu seul connait. Il ne faut jamais tourner la tete vers la ville secrete, vers la cite maudite des autres, si on ne veut pas etre change en statue de sel...
Notre-Seigneur exige que nous aimions nos ennemis ; c’est plus facile souvent que de ne pas hair ceux que aimons.