「太平記」の人物たち



       ――天折した天才を偲ぶ――


                    2007年5月12日論述

    

〔平家物語を先例として〕
   一一八〇年(治承四年)、深まりゆく秋の日に、一人の天才が歴史に姿を現す。平泉から鎌倉へ――、だがこの地での三年半に及ぶ滞在の消息を伝える資料は無い。
    源義経の初陣は、平氏殲滅の目的を共用しつつ、絶対君主・頼朝の配下にない一族「木曽義仲」の追討に始まる。そして、源義仲における終焉は、義経が歴史に名を残す軍略記の序章にすぎない。宿敵・平氏打倒の緒戦は「一ノ谷戦線」で展開され、当年二十六歳の若き司令官は、琵琶法師が語り継ぐ「平曲」(平家物語)にあるように、「ひよどり越の逆おとし」奇襲戦で圧勝を収める。一一八四年(寿永三年)一月から二月にかけて、である。
    しばしの休止。平家物語は、休止符の内容を伝えない。
     義仲と交替した任地(京都)施策で歓迎される義経。おそらくは、頼朝・範頼の兄達と違った幼少の経歴が、――伸びやかな平泉での棲息が、源氏忍従の前史と その教訓から生れた新体制への配慮を義経から奪ったに違いない。封建社会が替越と決め付ける行動によって、一時的解任あるいは休職処分に付されることになった。
     総司令官・源範頼は軍務と任地行政の板ばさみ(例えば徴収すべき食糧と慰撫施政の板ばさみ)もあり、約四ヶ月を停滞のまま過ごす。義経の復帰は、平氏軍団 の回復を待たなかった。「屋島戦線」から「壇の浦」へと続く海戦は、平家物語が驚愕と賛嘆で謳う、義経の天才的軍略を記録する。僅かに四十日あまり。鎌倉 から千キロを越える行程、それに重なる見事に短縮された時間は、勇猛果敢な義経の電撃戦の凄まじさを示して余りある。
  
    源平盛衰記を彩る後半の軍記、その語れば長いエピソード等の、しかし歴史の時間に残す短小さはそのまま若き軍略家の生涯の象徴でもある。世に言う「判官び いき」達は、史的事実に対する仮定を考え、それが単なる想像から創造へと進むとき、さまざまなフィクションを形成する。たとえば――
     藤原泰衡の愚かさを、われわれは何について語るだろうか?奥州王国の滅亡について、私もまた時流のうねりの中での、歴史的必然かもしれないと思うこともある。彼が父・秀衡 の遺訓を守り、義経を王国の総司令官に任じ鎌倉帝国に決戦を挑んだとき、奥州王国の勝利にそれほどの確信を抱けるだろうか? そしてまた例えば、義経と親しい 実弟達を暗殺し、鎌倉への恭順を示しつつ、鎌倉帝国に滅ぼされた愚行は、まさに節操を主題として批評の対象となるだろう。そこで、われわれは、その後の長 い歴史をとおして、源頼朝の強要に懊悩する藤原泰衡の暗愚を図ることができるだろう。戦史を含むあらゆる政治史が節操と無節操の混合史であり、また倫理的 基準が決める悪が決して滅びない実例を無数に挙げるとともに………。


     平家物語は周知のように勧善懲悪の物語ではない。善悪、正邪が語られても、それは部分的素材としての扱いを超えず、主題はあくまで「無常感」である。冒頭の「盛者必衰の理」がそれを明らかにしている。
     ――天下の乱れん事を悟らずして、民間の憂ふる所をも知らざりしからば、久しからずして亡じにし者どもなり。
  そして、われわれは、「驕る平家だけが久しくない」のではない記録を読むことになる。この、例えば現代論理学における「非・排他的選言肢」を前提とする命題は、やがて「すべて空」という究極の無常感へ向う主題の明示につながっていく。
      いま、この文体(スタイル)を、私は仮りに「中世的古典主義リアリズムの一つ」と名づけてみる。簡単に説明すれば、主観的情意の排除、ということである。読者の胸を打つ情感は、読者の脳裏に拡がる連想と同様に、「無常感」という動かしがたい客観的附与が招来する結果であり、この読者に個有の拡がりこそ、私が言う古典主義的デッサン感覚の特性と言える。
      更に、この古典主義を明確にした戦記文学として、私は太平記を例示することができるだろう。平家物語との差異については後述するが、ここにも、近代文学の 特色であるロマンティシズムの影を認めることは不可能である。同時に、個別的要因(例えば織田信長の死、ロバート・ケネディの死等)がその後の歴史形成を 違ったものにするケースの実在を認めつつ、一方で、個別的要因の如何を問わず歴史の潮流が全てを呑みこむ事実に同意するとき、私は「南北朝争乱史」が描く軌跡に、後者の事実を認めざるを得なくなる。


〔太平記の人物たち〕
      一三三五年(建武二年)、雪深い奥州の地をあとに、鎌倉・箱根の戦線に向った一人の天才がいた。奇しくも後醍醐天皇即位と同年の生れ、父・北畠親房の薫育のもとに成長した当年十七歳の、足利軍討伐司令官である。
      だが、北畠顕家の盛名は、それより二年前(元弘二年)、奥州統治の重職に任じたとき既に知れ渡っている。それは北條政府を打倒した年のことであるが、こ の革命政権による建武の体制は、その出発時から既に不協和音を奏でていた。執念にも等しい後醍醐の「天皇親政」理念は、実際に多くの支持を得られるものではなかった。それを後醍醐自身が認識していた。

北畠顕家
      この君子の周辺を眺めてみよう。まず北畠父子、理念の推進者である父・親房と、その多才な学識を受け継ぎ、加えるに、公家に似ない類い稀な軍略家として名高い嫡子・顕家。次に千種忠顕、これはこれで公家に似つかわしくない無頼振りを、むしろ好ましいものとして後醍醐自身が側近にして きた若者である。あとは外様とも言うべき武士階級出身の司令官達がいた。しかし、例えば新田義貞と楠木正成の二人を合わせても、野望に満ちた足利高氏の盛 望に遠く及ばない現実があった。それにも増して、北條政府打倒の初期から苦難を共にしてきた自らの長子、その武断主義で知られた親王・護良を、後醍醐は実父でありながら、足利高氏の術策のうちに失脚させてしまった過失もあった。
      確執のさなかに、鎌倉で異変が起こった。北條政府の残存者による反乱である。この好機を足利高氏は逃さなかった。反乱軍を鎮圧し、続いて鎌倉を占拠する。 後醍醐は出頭を命じ、高氏は拒絶する。この足利高氏が賊軍の汚名を免れようと、大覚寺統に対して持明院統の北朝を擁立するのは先のことであるが、世に言う 「南北朝争乱」――六十年戦争は、これによって幕が落とされたのである。
      討伐司令官・新田義貞の東下に対して、足利軍団はこれを三河・矢作川で迎え撃つが、またたくまに打ち砕かれ、箱根・竹ノ下に撤退を余儀なくされる。だが、 箱根戦線で劣勢をくつがえした足利軍は、今度は敗走する新田軍に追い討ちをかける。新田軍は幾度となく建て直しを計るが、劣勢のまま京都へ敗走する。
 
     奥州・多賀城を出立した当年十七歳の司令官・北畠顕家は、関東での政局の急変に間に合わなかった。そのため、進軍とともに勢力を倍加させていく強大な足利軍の後を追う形になった。
     京都戦線では、千種忠顕、名和長年、楠木正成、結城親光の諸将が防戦したが、強大な足利軍の敵ではなかった。後醍醐は京都から比叡山へ逃れ、北方軍団の到着を一日千秋の思いで待つことになる。
     北畠軍は正月十四日に坂本に到着した。暫時の休息をとるあいだ、新田軍、結城軍が足利軍の消耗を図る攻防をくり返す。ここでの一進一退が足利軍にとって、僅かな意味も持ち得ないことを足利高氏は熟知していた。同時に自らが軍略家でないことも熟知していた。――源氏政権への志と、平氏・北條の悪政に替わること、しかし武家政治を望む武家達の期待を一身に荷っていること――この一段高い視野において、その本領が政治的活動にあることを、むしろ誇りにし、また最大の武器と考えていた。
    京都北部から東部にかけて包囲網を敷きはじめた北方軍団と、それに協力していく新田軍の動きを眺めながら、足利高氏は決定的な敗北を予感する。その上で、彼は敗走への避けられない激戦と、それに伴う味方の犠牲を計りつくそうとした。



    太平記は足利高氏の性格と行動における奇妙な矛盾をそのまま記録している。その他の戦記文学に比べて読者の少ない理由の一つとして、この「天下取り」の 主役の、常に「明瞭さを欠く」行動様式が云々されてきた。ある批評家は、現代文学における心理描写の手法の欠如をその原因としてあげている。だが、私は、 そうした作者の主情性は近代文学の特質であり、それを排除し、「行動」と「言表」を積み重ねていくスタイルに、むしろ現代性を失わない中世の古典主義を見 出す。
    そして、足利高氏が普遍的な凡人の生を完うしつつ、即ち、才智において見るべきものを持たず、その血筋と支持者達の強い忠節によって初めて覇業を成しと げていくという、源系の総師の典型例の一人であることに思い至る。源義朝、源義経と比べるとき、頼朝に見られる高氏との相似、あるいは後年の織田信長に比べて、徳川家康の平凡な特性が政権獲得者のあるパターンを形造っている。・・・・・・部下の忠節を痛く感じ、その感性を最大限に誇示する。悲観と自信喪失の 日常の奥に秘めた、「時流を信じる楽観性」。


    北畠顕家が率いる北方軍の総攻撃は一月二十七日と記されている。僅か一日だけの戦闘で、足利軍はかつてない打撃をこうむった。その上、山陽道を敗走する途次 で、千種・楠木両軍が執ように加える攻撃と、再び新田軍、そして北方軍団から受けた瀕死の打撃。予想した敗北の現実の姿に、足利高氏は驚愕する。
    長い戦歴での初めての体験とはいえ、そもそも高氏の戦歴に激戦は殆んど無かったと言える。北條政府打倒の第一殊勲者とされたが、それは建武体制を確立する ための後醍醐による政治的配慮にすぎない。北條政府の高級武将として楠木軍を包囲していた高氏が、反転して六波羅攻撃に向い、その長子を鎌倉攻略軍に合流させたときは、既に趨勢は決していた。
    群馬・新田ノ圧から南下して、激しい死闘の末、鎌倉攻略を果したのは新田義貞が率いる関東軍団であった。


    「太平記」と並んで南北朝争乱史を記録した「梅松論」は、興味深いエピソードを伝えている。大敗を喫した足利高氏の現実的思考と名分にこだわる、いつも の矛盾の中で、その特質とも言うべき政治的配慮を怠らない姿。むしろ、政治的行為を超死回生の積極策とする姿と言えよう。建武の初期に、後醍醐を見切り、 足利高氏に従属した才人・赤松則村は、源氏政権を志す主君に有益な提言をしている。――名分を捨てて九州へ逃れるべきこと、その途次において、持明院統の 北朝天子を擁立すること。


   京都戦線での大敗は足利高氏における「生の信條」をいっそう強固にした。九州武士の多くの信望を手中にしているとはいえ、この西海の地には、後醍醐への忠節 を誓う菊地武敏が率いる強力な軍団がいた。避けられない幾多の敗北と、強いられる犠牲の中で、来るべき時流に己れを賭ける信念を貫徹する。


   北畠親房の「親皇正統記」は南朝正統論を記述するが、必ずしも武家政治を否定するものではなかった。
   そして「梅松論」は楠木正成が、後醍醐に、天皇の臣下としての武家政権を容認し、足利高氏にその任を与えるべきことを献策したと伝えている。
   北畠親房の政治理念に対して、楠木正成の現実政策である。
   だが、後醍醐はそれを拒否する。後世のわれわれは、その一事について、それを後醍醐の不明として批判できるだろうか? むしろ反対に、私は、楠木正成の現実施策のほうにこそ大局を見誤る負の要素を認めてしまうのだ。そこには、理念を欠く地方武士の典型が浮上する。足利高氏が企図する武家政権が、平安朝以降の馴れあいではないことを知らねばならない。それは、源頼朝以降の鎌倉政権の継承であったこと、その衝突から建武体制の確立が消失したことを後醍醐は熟知していたのである。
   保元・平治の二つの戦乱をとおして、天皇親政の体制は崩れ始め、平清盛から源頼朝の時代にかけてそれは殆んど力を失ったと言えるだろう。北條政権確立の時点では、北條義時に反揆する天皇が、むしろ謀反者として扱われた史実さえ生まれている。それ故にこそ、後醍醐の胸中を充たす、執念にも等しい「復古理念」であっ た。
   だが、その理念について、太平記は、後醍醐の「観念と現実」の中の混乱、そこから生れる政策への忠臣達の批判を記録している。例えば北畠顕家が上奏した練書はその一つである。
   足利高氏を君主と仰ぐ一方の武家集団は、「現実的利益」に基く、いわば庶民的不特定多数を基盤としていた。時代の逆行が生む損失を拒否する、それこそ時流の形成者にほかならなかった。
   この対立図式は、「貴人的理念の脆弱さ」に対する「庶民的本能の力強さ」として記述できるだろう。


   記録と資料の集積は、それが仮りに豊富であっても、必ずと言えるほど史実の空隙を提示する。その空隙を埋める想念の中で、例えば私の場合、悲劇的な南朝の群像が甦る。
   大塔官護良親王の失脚を、北畠顕家は遥かな奥州の任地で「苦難の前兆」として受けとめていた。稀代のアジテーター・後醍醐の、一方で裏表常ない外交戦術のなかで、いち早く足利高氏の野望を見抜いていた護良である。足利直義(高氏の弟)もまた護良を葬るべき危険人物と見透していた。足利の術策に陥った後醍醐の、 実子売り渡し劇がその結末だった。もともと後醍醐は、武断主義の護良を疎んじていたと伝えられる。しかし一方で、無頼漢公家とも言うべき千種忠顕への偏愛は後醍醐の性格的な矛盾のひとつと言えるだろう。
   建武体制が与える恩賞に酔い痴れた千種忠顕の愚行の数々が思い出される。また、出自不詳の楠木正成が示す皇家への忠誠――、そこに秘む野心と実利の匂い。初老の名和長年には幾ばくの力も残されていなかった。僅かに新田義貞の関東軍、菊地武敏の西海軍に一縷の望みを託すだけかも知れない。
   だが、鎌倉壊滅戦における新田義貞の猛勇は、策を知らぬ激突戦だけを身上とする下級武士の非才を露わにする。わが思いの正しさ故に・・・・・・、顕家は憂慮するが、思惑の渦は各人各様のうちに既に建武体制の中に充ちていた。
   奥州統治という重責の拝命は、若冠十五歳の北畠顕家に希望を与えた。広い北方の地で、己が学識と軍略統治を経世に生かすことができる。残された都の不安について、――それは父・親房と親王護良に任せるほかない。
   やがて一年半ばの歳月を経て――
   此処、奥州の地にも足利軍の策謀の触手が蠢動を始めていた、だがこのとき、北畠顕家は箱根に向って多賀城を出立しなければならなかった。足利討伐後すぐにも引き返す算段は、しかし、緒戦の勝利を 確保できなかった新田義貞の拙策によって消失してしまった。立て直しの成らない新田軍は京都へ敗走し、追走する足利軍を追って北方軍団は遂に京都までの行程を果してしまった。
   ――なんという新田の脆さよ。
   怒りを圧えつつ、少年司令官は、京都周辺に湧き立つ歓呼の迎えを冷視して、そのまま軍団に休息を与えた。異才とは耳にしていたものの、十七歳少年の怒りと休 息に身勝手だけを見る諸将の中で、顕家休息の期間に、最も果敢に足利軍を攻めたのが新田義貞であった。自からは公家の身でありながら、顕家が矜持してきた武人の真情を、このとき初めて、彼は義貞の内に認めた。


   過年の鎌倉陥落について、北条政権の滅亡について、「新編武蔵風土記」は、新田義貞南下の進路を詳細に記している。そして、最大の決戦場として分倍河原が記録されている。分倍河原戦線で激突した坂東武者どうしの壮絶さは「太平記」にも記述が見られる。
   新田義貞を支配する情熱は、同じ源系に発しながら、足利高氏に比べて常に下級武士の地位を定められてきた己れを、一級武士として認めた後醍醐への限りない忠節にあったと言えるだろう。
   後醍醐の政治性はしばしば自らの首をしめる結果を招来している。親王・護良を足利軍に引き渡した愚行もさることながら、南北朝争乱の初期に、新田義貞に足利追討を命じつつ、政治的配慮から自らは関知しない装いのもとに、源系二人の私闘であるかの印象を世に与えた。
   だが、そのもたらす結果の乖離作用は余りに明白である。利益堅守の現実主義に、権威主義の容認もまた含まれる。「天皇」の権威の消去によって、当然のように足利軍に馳せ集う数の増加が続く。更に例えば、戦闘における僅かな蹉跌さえが、新田から足利に鞍替えする士卒の数を増すことになる。箱根戦線の劣勢をくつがえせなかった義貞の苦悶が想像されよう。そして遂に、あの最強を誇った関東軍団の殆んどが足利軍に奪い取られ、新田義貞は自らの軍容形成を越前に求めるほか無くなっていた。
   同僚達による軽視、表裏常ない主君のもと・・・・・・、その中で信念を曲げず、常に最前線司令官として困苦を自らに課し続けた、この源系武将の孤影に「哀れ」を想うのは私だけではないだろう。


    京都奪回、続く山陽道での痛打、と、足利討伐総司令官の任を完うした北畠顕家は、後事を父・親房に託すと、奥州路を急がねばならなかった。
     ・・・・・・二年前、彼の前方に拡がる同じ山野は、彼が描く未来の北都の可能な姿を告げていた。それも今は、遥かな過去の思い出にすぎない。時をおいて脳裏をかすめる死の影がある。影は、戦勝の確かな反映であった。大勝に酔う南朝の諸将たち。だが、やがて九州を飛躍の足場にして来るだろう足利高氏の威力が、確かなこととして顕家の想念を支配していく。一方の高氏は、「学才を誇るだけの公家少年」とあなどる対手から受けた打撃に、それは完遂すべき野望の途次に支払うべき犠牲の高値なのだ、と覚悟したように・・・・・・。そして、顕家の連戦連勝が到達する最後の地点。そこに見透される影像は、栄光を包み被う暗い死の姿に他ならなかった。
    敗戦の中で、着実に手をうつ高氏の不思議な才覚・政治的布石。例えば、この奥州の地にさえ、その触手は既に伸びている。だが、九州で孤軍奪闘する菊池武敏の破滅は意外な早さで伝えられるだろう。北方軍団に要請される第二次遠征は遠い未来のことではない。
    己が「継世の才智」を十全に用いる機会は遂に来なかった。おそらくは帰省地・多賀城の放棄から事は始まるだろう。いま右手になだらかな曲線を浮き上がらせている霊山城を拠点に、しかし、苦しい奥州経営が強いられよう。



    太平記全巻を貫く主題はない。人物たちの言動を記述するだけの単純なスタイルは、複雑な背景を提示する唯一の手法と言えるかもしれない。だが、この前衛性は、主題を彩る情感を求めた近代以降の読者を遠ざけてきた。
    これに比べて、同じ古典主義作品「平家物語」の場合、部分的主題が新たな展開へつながるプロットの運びは、独特の技法としての評価より先に、説明的要素として読者に歓迎された。そして、全巻を貫く主題「無常感」が、この戦記文学の読者を、くり返される理解へと導くのである。


     北畠顕家。石津戦線(堺の南方・石津川)で敗死。享年二十歳。
九州から回生した足利軍団の恐るべき数量は常に南朝連合軍を圧倒していた。顕家が率いる北方軍団の参戦が、ようやく南朝側に有利な展開を生んだ。しかし、足利高氏は、数度にわたる大敗の中で、長行程を経てきた北方軍の疲労を待ち続けたのである。顕家の死の後に、新田義貞と楠木正成の死が続いた。
     ――其戦功徒ニシテ、五月二十二日、和泉ノ堺阿倍野ニテ討死シ給ヒケレバ、相従フ兵悉ク腹切リテ、一人モ残サズ失セニケリ。
     太平記が伝える北畠顕家の最後である。死の一週間前に、顕家は後醍醐に上申する誡奏文を書いている。その憂国・忠節に人々は涙するが、私は、溢れるばかりの智略と理念を内に残したまま死を覚悟せねばならなかった若き司令官の悲憤に涙を流すだろう。


    以後、南北朝争乱史は、第二世代達に引き継がれるが、それは歴史の蛇足にすぎない記録と言える。足利高氏・直義兄弟の骨肉の争闘が複雑な三つ巴を描くが、それもまた源頼朝からこのかた、源系権力者に宿命的な血の相克にすぎないと言えよう。

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